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nonohana75

野の花(後篇)

トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

七十五 「余(あん)まりだ、余(あん)まりだ」

 本当に冽が自分の手で選り分けて、この本を不要と言い、その家から払い出したであろうか。
 河田夫人はこの返事を聞いて、悔しさ悲しさが、腹の底から込み上げて、真に身も世も無い思いがした。

 自分が家出して、その地位を品子に奪われたことは、あえて今更悔やみはしない。悔しくても自業自得と諦める覚悟である。けれど、既に死んだ者となっている私の形見の品が、何でそのように邪魔になるだろう。

 その品も冽が、わざわざ愛の記念(しるし)として、私に贈った品である。私が世に無い者となれば、なお更その品を大事にしてくれそうなもの。それを不用などと言って、言わば自分の雇い人も同様な、この学校の事務長に与え、少しの惜しげをも現さないとは、あんまり情けの無い仕方である。

 何で私が、それほどまで憎いのだろう。エエ、私には、死んだとなった後までも邪魔にされるような、それほどの罪は無い。よしや、罪があるにしても、その罪は、あんまり夫を愛し過ぎた為である。

 私がその家に居ては、夫の生涯の不幸だと思うがために、家を出
たのだ。何も今更、その心根を汲んでもらいたくは無いが、形見は形見として、その家に置いてくれても良さそうなもの。

 それも、私が再びその家に入り、元の位置に戻ろうとでも言うのなら、邪魔と言うこともあろうが、今まで、五、七年の間、全く死人同様となり、誰一人にも、澄子がまだ生きているなどの疑いも起こさせず、この後とても、生涯を死人同様に送ろうと覚悟して、いくら自分が辛くても、人には何の迷惑も掛けまいと、努力に努力を重ねているものを、そうまでするとは、あんまりだ。あんまりだ。
 
 ほとんど、地団太も踏みたいほどの思いで、胸いっぱい、眼いっぱい涙が満ちた。けれど泣くことは出来ない。ただ、書棚に向かい、外の本を調べるような振りをして、顔を品子から隠し、悲しさを押し鎮(しず)めている。

 品子はこうとも知らず、
 「イヤ、夫人、初めてお目にかかって、たいそう長居を致しました。」
と言って、立ちかけ、又言葉を転じて、
 「この外に大抵の本は屋敷に有りますから、見たい場合には、
ご遠慮なく言ってお寄越し下さい。オオ、今日は良彦が、この先の村まで、散歩するようなことを言っていましたから、庭の草花を折集めさせて、寄越しましょう。」

 良彦という名前が、この場合にとっては、何よりの慰め言葉となった。勿論、品子は偶然にこの語を発したのだけれど、もし、この語が無かったなら、河田夫人は、ただ悔しさ、悲しさが募(つの)るのみで、耐えられなくて、声にまで出して泣くところだったろう。

 単にこの語が聞こえたために、愛(いと)しいわが子に、会えるかとの思いが浮かび、ちょっと気持ちを変えることが出来た。
 品子;「この後も時々参りましょう、さようなら。」

 河田夫人は、ようやくこの方に向き、又も聞き取れないほどの声で、
 「ハイ、さようなら。」
とだけ言って送り出した。品子は高く首を上げ、ほとんど反り返るような身振りで、馬車のところへ行き、ゆったりと乗って立ち去った。

 後に残った河田夫人は、又書棚の前に行き、あの本を取り出して泣いた。自分の記憶が、夫の家から追い出されると言うことは、自分が家出したことよりも、辛いほどに感じられる。けれど、教室には生徒が待っている。そのうちには、又今の品子の言葉通り良彦も来るであろう。

 自分の悲しみに、くよくよしては居られない。やがて、テーブルの引き出しから、ナイフを取り出し、冽の筆跡で自分の名前が書いてある、あの表紙裏の一枚を切り取った。夫冽が私の記憶をこうまで軽く見ることを、せめて他人に知られないようにして置きたいのだ。そして、切り取ったその一枚は、自分の守り袋に入れてしまった。

 それはさておき、品子は馬車を校長春田博士の家に回らせた。博士に会って、なるほど今度の事務長は、前の柳川夫人よりも、女子教育に向いていそうだと、賛成の意を述べた。実にこの河田夫人をその実は澄子だと、露知らないのが幸いである。もし、うすうすでもそう疑えば、品子は天地を覆すほどの騒ぎを始めるところだ。

 やがて校長に分かれて我が家に帰り、今度は冽に向かい、自分が見ただけのところを述べた。冽は聞き終わって、
 「そのように色が白くて、眉毛などが黒いところを見ると、スペイン人の血を引いている婦人だな。」

 品子;「イエ、私の考えでは、どうもアイルランドから出たのだろうと思います。何となく悲しげで、今にも泣き出すかと思われるところは、情にもろい、喜怒哀楽の思いが早い、アイルランド人に違いありません。」

 冽;「そうか、その内には、私もアノ辺に行くだろうから、自分で会って判断しよう。」
 澄子は、既に恋の敵である品子にも会い、後でわが子にも会わねばならない。引き続いては、夫冽にも会うことになるだろう。

 いずれも、他人とはなることが出来ない間柄なのに、すべて他人として会わなければならない。良くその役目が勤まるだろうか。実に頼りない次第である。



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