巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

nonohana75

野の花(後篇)

トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(拡大率125%が見やすい)

since 2010・7・9

今までの訪問者数956人
今日の訪問者数1人
昨日の訪問者数0人

ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

七十五 「余(あん)まりだ、余(あん)まりだ」

 本当に冽が自分の手で選り分けて、この本を不要と言い、その家から払い出したであろうか。
 河田夫人はこの返事を聞いて、悔しさ悲しさが、腹の底から込み上げて、真に身も世も無い思いがした。

 自分が家出して、その地位を品子に奪われたことは、あえて今更悔やみはしない。悔しくても自業自得と諦める覚悟である。けれど、既に死んだ者となっている私の形見の品が、何でそのように邪魔になるだろう。

 その品も冽が、わざわざ愛の記念(しるし)として、私に贈った品である。私が世に無い者となれば、なお更その品を大事にしてくれそうなもの。それを不用などと言って、言わば自分の雇い人も同様な、この学校の事務長に与え、少しの惜しげをも現さないとは、あんまり情けの無い仕方である。

 何で私が、それほどまで憎いのだろう。エエ、私には、死んだとなった後までも邪魔にされるような、それほどの罪は無い。よしや、罪があるにしても、その罪は、あんまり夫を愛し過ぎた為である。

 私がその家に居ては、夫の生涯の不幸だと思うがために、家を出
たのだ。何も今更、その心根を汲んでもらいたくは無いが、形見は形見として、その家に置いてくれても良さそうなもの。

 それも、私が再びその家に入り、元の位置に戻ろうとでも言うのなら、邪魔と言うこともあろうが、今まで、五、七年の間、全く死人同様となり、誰一人にも、澄子がまだ生きているなどの疑いも起こさせず、この後とても、生涯を死人同様に送ろうと覚悟して、いくら自分が辛くても、人には何の迷惑も掛けまいと、努力に努力を重ねているものを、そうまでするとは、あんまりだ。あんまりだ。
 
 ほとんど、地団太も踏みたいほどの思いで、胸いっぱい、眼いっぱい涙が満ちた。けれど泣くことは出来ない。ただ、書棚に向かい、外の本を調べるような振りをして、顔を品子から隠し、悲しさを押し鎮(しず)めている。

 品子はこうとも知らず、
 「イヤ、夫人、初めてお目にかかって、たいそう長居を致しました。」
と言って、立ちかけ、又言葉を転じて、
 「この外に大抵の本は屋敷に有りますから、見たい場合には、
ご遠慮なく言ってお寄越し下さい。オオ、今日は良彦が、この先の村まで、散歩するようなことを言っていましたから、庭の草花を折集めさせて、寄越しましょう。」

 良彦という名前が、この場合にとっては、何よりの慰め言葉となった。勿論、品子は偶然にこの語を発したのだけれど、もし、この語が無かったなら、河田夫人は、ただ悔しさ、悲しさが募(つの)るのみで、耐えられなくて、声にまで出して泣くところだったろう。

 単にこの語が聞こえたために、愛(いと)しいわが子に、会えるかとの思いが浮かび、ちょっと気持ちを変えることが出来た。
 品子;「この後も時々参りましょう、さようなら。」

 河田夫人は、ようやくこの方に向き、又も聞き取れないほどの声で、
 「ハイ、さようなら。」
とだけ言って送り出した。品子は高く首を上げ、ほとんど反り返るような身振りで、馬車のところへ行き、ゆったりと乗って立ち去った。

 後に残った河田夫人は、又書棚の前に行き、あの本を取り出して泣いた。自分の記憶が、夫の家から追い出されると言うことは、自分が家出したことよりも、辛いほどに感じられる。けれど、教室には生徒が待っている。そのうちには、又今の品子の言葉通り良彦も来るであろう。

 自分の悲しみに、くよくよしては居られない。やがて、テーブルの引き出しから、ナイフを取り出し、冽の筆跡で自分の名前が書いてある、あの表紙裏の一枚を切り取った。夫冽が私の記憶をこうまで軽く見ることを、せめて他人に知られないようにして置きたいのだ。そして、切り取ったその一枚は、自分の守り袋に入れてしまった。

 それはさておき、品子は馬車を校長春田博士の家に回らせた。博士に会って、なるほど今度の事務長は、前の柳川夫人よりも、女子教育に向いていそうだと、賛成の意を述べた。実にこの河田夫人をその実は澄子だと、露知らないのが幸いである。もし、うすうすでもそう疑えば、品子は天地を覆すほどの騒ぎを始めるところだ。

 やがて校長に分かれて我が家に帰り、今度は冽に向かい、自分が見ただけのところを述べた。冽は聞き終わって、
 「そのように色が白くて、眉毛などが黒いところを見ると、スペイン人の血を引いている婦人だな。」

 品子;「イエ、私の考えでは、どうもアイルランドから出たのだろうと思います。何となく悲しげで、今にも泣き出すかと思われるところは、情にもろい、喜怒哀楽の思いが早い、アイルランド人に違いありません。」

 冽;「そうか、その内には、私もアノ辺に行くだろうから、自分で会って判断しよう。」
 澄子は、既に恋の敵である品子にも会い、後でわが子にも会わねばならない。引き続いては、夫冽にも会うことになるだろう。

 いずれも、他人とはなることが出来ない間柄なのに、すべて他人として会わなければならない。良くその役目が勤まるだろうか。実に頼りない次第である。



次へ

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花