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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

        七十九 「貴方の顔を知っています」

 子供と言う者は、大人の泣くのを見ると、ひどく異様な感じを起こす。どうかすると一緒に泣きたくなることもある。今、良彦は河田夫人の泣く様子を見て、非常に心を動かした様子で、

 「僕の言ったことが悪かったのですか。」
と聞く声さえほとんど泣き声である。この子にこのような思いをさせるのは、痛々しい。河田夫人は必死の思いで、自分の心弱さを叱り、これではならないとようやく泣き声を止めた。

 そして、起き直り、
 「何で貴方の言うことが悪いなどと、そのようなことがあるものですか。」
 ことさら自分の顔に、浮かぶはずの無い笑みを浮かべて、良彦を慰めた。

 勿論、本当の笑みにはなっていないが、良彦は、又それに釣られて、同じく笑みを浮かべた。確かに両人の間には自然に同情が通うのである。

 それでも良彦は、まだ胸に落ち着かないところがある。
 「何で貴方は泣いたのですか。」
 河田夫人;「聞かれては恥ずかしい。人様の前で泣くものではないですが、女と言うものは、涙もろくて、ツイ、耐えられなくなります。どうか許してください。」

 良彦;「でも何で泣いたのですか。」
 納得が行くまでは、聞くのをやめない様子である。
 夫人;「実はですね、私に一人の息子が有って、数年前に亡くなりましたが、今貴方を見て、ツイ、その子のことを思い出したのです。」

 良彦は怪訝な(けげん)な顔をして、
 「そうですか、僕は阿母(おっか)さんを失い、貴方は息子を失った。どっちが余計悲しいでしょう。」

 夫人;「それは私の方が悲しいのです。子が母を失うのは、言わば順ですから、貴方は亡くなったそのお母さんのことを、余り思い出してはいけません。」

 良彦;「順だってそれは無理です。まだ死ぬ頃でない若い阿母(おっか)さんですもの。」
 夫人は何と返事してよいか知らなかったが、黙っていては、又自然に悲しくなってくるから、
 「貴方はどうぞ、この後も度々ここへお寄りください。」
と言葉を転じた。

 良彦;「寄りますとも。前の柳川夫人の時にも、散歩に出さえすれば必ずここに来ましたもの。子爵夫人の機嫌の良い時なら、毎日でもやって来ます。」

 子爵夫人の機嫌とは、何の意味だろう。品子の機嫌の悪い時には、この子を散歩にさえ、出さないのだろうか。婦人は少し驚いた調子で、
 「エ、子爵夫人の機嫌、では、アノ、今の子爵夫人が貴方に辛く当たることでも有りますか。」

 良彦は高く笑って、
 「僕とは意見が衝突するさ。」
 「エエ、それは。」
と叫んで、河田夫人は思わず良彦の手を取った。私をいじめ出したあの品子が、なお、飽き足らずといって、今はこの子をまでいじめているのかと思い、あたかも、敵に対してこの子を保護しようと言うように身を構いた。けれど、直ぐに心付き、取った手をあわてて離した。

 良彦は別に何の意味とも知らず、
 「オオ、貴方の手の白くて柔らかなこと、僕の阿母(おっか)さんの手と同じだ。今の子爵夫人も白い手を持っているけれど、いけないのは非常に硬くて鉄の板のようだから。」

 夫人;「そのようなことが、どうして貴方に分かります。」
 良彦;「何度もこの頬に受けて見たから知っています。子爵夫人は言うことを聞かない子供には、平手で耳の辺を見舞うのが一番の薬だと思っています。」

 河田夫人は悲しさよりも腹立たしさに顔を赤らめ、
 「それをお父さんが黙っていますか。」
 良彦;「ナニ、お父さんが知るものか。知ったら大事になるから僕が黙っているのです。」

 実に、子供としては見上げた心がけである。けれど、河田夫人は落ち着いて居ることは出来ない。
 「それはあんまりひどい。あんまりひどい。」
と繰り返した。

 良彦は立ち上がって、
 「ナニ、女の手などで、僕の体に傷などが付くものか。僕は子爵夫人の前で痛い顔をしたことは有りません。」
 傲然として、人に屈しない英雄の気質が、早や見えているといっても好い。

 やがて、そばの壁に掛けてある帽子を取って、
 「河田夫人、又来ます。」
と別れを告げた。引き止めたくても、この上引き止めるのは危険である。聞きたいことはまだ数々あるけれど、胸に納めて、

 「もうお帰りですか。本当に度々来てください。」
と言う際に、二人の目が合った。良彦はハッと驚いて、
 「オヤ、貴方は」
と言いかけて、又夫人の顔を見直し、

 「一体、貴方は誰ですか。河田夫人。僕は確かに貴方の顔を知っています。」
 河田夫人は「これは」と思い一足、後ろに引き下がった。



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