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野の花(前篇)

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トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

野の花

           八 「殺して遣りたいよ」

 息子が妻を選んだのを、「罠にかかった。」とは、聞き捨て難い言葉である。けれど、冽は虫を殺した。まさか、母に向かって腹を立てるわけにはいかない。「そうおっしゃらずにお母さん、どうか喜んでくださいな。」「できませんよ。全く貴方が泥の中に身を捨てる様なものだもの。どうして喜ぶことが出来ましょう。」「でも、当人を見もせずにそう悪くおっしゃるものでは有りません。」「見なくても大抵は分かっています。田舎代官の娘は大抵どのような者。乞食の娘は大抵このような者と」冽ももう返す言葉がない。家の中はしんと静まった。

 母はただ罵(ののし)ったとて仕方がないと見て取ったか、たちまち調子を変え、「冽や、冽や、後生だから破談にしておくれ。今断るなら訳もないでしょう。」「断れません。婚礼の日まで決めて来ました。」短い言葉の底には、確かに決心がこもっている。母はうめきの声と共に、「おや、おや、婚礼の日まで決めて来るとは、それはもう、この母の後見の期限がが切れ、一人前の人間なった貴方のする事だから、そうまで取り決めたものをこの母がそばから取り消すことは出来ないが、けれど覚えてお出で、この母は決して賛成しないから。エ、田舎代官の娘などは、大嫌いだから。」

 一種の宣戦の布告とも見るべき言葉だ。「でも、お母さん、私が初めて愛する女では有りませんか、そう憎まなくても良いでしょう。私はこの女の外に又と女は居ないほどに思います。」その言葉に、そばに立っている品子はどのように感じただろう。胸に剣を差し込まれたように鋭い痛みがその顔に現れた。ここにこのような女が居るのに、又と女は居ないなどとはあんまりな言い方だ。

 冽は百計尽きて、初めて品子を思いだしたように、たちまちこちらに向かい、「品子さん、何とか言葉を添えてください。貴方ももう年頃ですから今は愛と言うことが分かり、なるほどと、私の境遇を察するようにもなりますよ。どうか、お母さんをなだめてください。」

 今に分かるとはこれもまた余りにひどい。これ程分かっているのが分からないのかしら。「でも、何と言っていいか。私は分かりませんもの。」とこれだけがやっとの返事。それも、喉に詰まるほどの思いで、我が声ながら、日頃の様な艶もなく、他人の声かと怪しまれた。

 ここに至って、冽は、計の出るところを知らない。なるほど帰る道々も、あるいは母が身分の低いところ文句を付けるかも知れないと、いくらかは思ってみたが、これ程とは知らなかった。こう、二人の婦人に嫌われては、どれほど澄子が辛いだろうと、初めていたわしさを感じた。

 母はしばらくの無言の後、「冽、貴方は物の釣り合いと言うことを知っているだろうが、英国屈指の名誉ある子爵の家に、田舎代官の娘がつり合うとお思いか。」澄子自身が支障を唱えた事も、丁度この通りの言葉だった。その言葉を再び母の口から聞くとは、何だか不思議なようにも思われる。

 「どうか、お母さん、そのように言わないでください。澄子は実に可愛いく清浄で、そして、真心の満ちあふれている女です。お会いなされば貴方でも愛さずにはおられません。どうか、自分の娘だと思って、不行き届きな所は指図もし、万事知ら無いことだらけですから、教えてやるようにしてください。私の大事な妻では有りませんか。」
 大事な妻ととりわけ情けを含んで言うように品子の耳には聞こえた。本当に殺してやりたいよと、聞く人が無ければ言い兼ねなかった。

 母は仕方がないと思ったか、断念した口調で「アア、アア、何と言っても成るようにしかならないから、この事にはもう口は出しますまい。時世時節で田舎代官の子を娘にもしなければならない。知らないことが多いなら、教えてもやりましょうが、夫の家を治めるだけの物心も知らない身で、貴族の妻に成ろうとは、なるほど一方成らない賢い女だとは見えるね。貴族の作法もさぞ早く覚えるでしょう。品子さん、この家が近々女学校に成って、貴方と私が教師に雇われるのだとさ。幸せな事だねえ。」

 女と言うものは妙に言葉を絡むのが上手だ。道理に負けても決してきれいに負けるものではない。殺される蜜蜂のようにどこかに針を残して置く。しかし、冽はこれで満足する外はない。その内には、母の心も治まるだろうと思い、「何分にもよろしくお願いしますよ。」と機嫌をを取るように言い置いて、ここを切り上げて自分の寝室に引き上げてしまった。

 後に伯母、姪の二人は額をつき合わせるようにして、夜の更けるまでひそひそと話していた。そして、母親の最後の文句は、これも澄子が冽に言った通りの言葉で、「このような結婚が幸福に終わる筈がない。」と言うのであった。



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