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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

nonohana80

野の花(後篇)

トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

    八十 「この一紳士は誰」

 「貴方の顔を知っています。」
との良彦の言葉に、河田夫人は、さては真の母と言うことが分かったのかと、一時はこのように思い、驚いて後ろに下がった。良彦は更に語を継ぎ、
 「ハイ、確かに知っています。どこかで会った方に違いありません。」

 河田夫人は少し安心した。良彦が知っているというのは、我が母と知ったのではなく、ただ初対面ではないと知ったのだ。どこかで会った人に違いないと、このような気がするのに止まるのだ。

 勿論、静かに考えて見ると、大人さえ見破ることが出来ないほど、変わり果てている姿を、子供が見破ることが出来るはずはない。別れた時が七、八歳のホンの幼い時で、物事の良し悪しのつかない、いたずら盛りであった。

 母の顔だから覚えてはいるだろうが、うすうすと眼の底に留まっているのに過ぎないのだ。決して、品子や春田博士が覚えているほど明らかなはずは無い。

 けれど、良彦は落ち着かない。
 「何処で会ったのでしょうね、夫人、どうも、思い出しませんけれど、決して初めてでは有りません。ねえ、ねえ。」
と覗き込むようにした。

 河田夫人は実に一生懸命の思いで、「オホホホホ」と何気なく笑み、
 「他人の空似と言うことはいくらでも世間に有る事ですよ。」
 良彦は可愛い頭を傾けて考え始めた。

 もしも本当に思い出されては大変だと、夫人は心にびくびくしている。
 良彦;「貴方の方では覚えているでしょう。エ、夫人、貴方は僕の顔を、どこかで見たことが有ると思いませんか。」

 思うの思わないのというそんな軽々しいことではない。幾年幾月、ただその顔が目に付いて、夏虫が火に寄せられるような思いで、この所まで近寄って来たのである。

 けれど、そうとはほのめかすことも出来ない。だからと言って、我が子に向かい、見たことも無いなどと、嘘を言うのも親の身として尚更(なおさら)辛い。

 「全く他人の空似と言うことは、世間にいくらでも有りますよ」と嘘でないように嘘をついた。良彦は疑い疑い。
 「では、貴方に似た誰かを見たのでしょうか。」
と言い、早や、門に歩み出た。

 そして、繋(つな)いである馬に乗りながら、
 「けれどこれから、時々来ますよ。」
 これが別れの言葉である。河田夫人は、
 「ハイ、どうかしばしば」
と答えて、後から門を出た。

 早や良彦は一鞭あてて走らせている。夫人は見えなくなるまでその姿を見送った。そしていよいよ見えなくなった後で、よろけるように自分の居間に帰って来てしばらくの間泣き伏した。

 けれどこの夫人には、これよりもっと辛い対面がもう一つ残っている。我が夫瀬水冽に、やはり他人のままで、遅かれ早かれ会わなければならない。それを思えば、どうしたら良いだろうと、早や逃げ出したい気もする。

 本当に逃げ出そうかと思ったことも度々ではあるが、一旦、良彦に会ってからは、その身がこの学校に鎖でつなぎ付けられたようになった。これが恩愛の絆(きずな)と言うものであろう。

 品子は勿論、我が夫まで、この身の記念をさえ、家から払い出そうとしている中に、一人良彦だけが、死んだ阿母(おっか)さんが懐かしいと、他人と思う私にまで、アノように打ち明けて訴えている。

 どうして、それを関係ないように見て、去ることが出来るだろう。特にその話し振りによれば、どうやら品子が良彦に辛く当たる様子も見える。私がもしここにいて、陰に添うて見張なければ、誰が良彦を守ってくれる。

 私はどのように辛くても、良彦の先途を見届けるまで、ここに居なければならない。
 真に良彦の守護神となった気で、どれほどの辛さをも耐えるとの決心はしたけれど、常に良彦のそばに居られるわけでは無し、まして、日陰同様の身をもって、どれほどの守護が出来るだろう。

 また、この所に何時までも居る間に、自分がどのようなことに成り行くか等のことは、少しも知ることは出来なかった。
 ただ、少し幸いなことは、夫冽が早速にはこの学校には来なかったことだ。

 この間に河田夫人は熱心に、忠実に自分の受け持ちのことに専念し、父兄からも生徒からも、ますます喜ばれるようになった。

 ある日のこと、午後の四時まで学校の事務を執り、色々煩雑な用事などを、それぞれ済ませたが、身も心も非常に疲れた。ほとんど耐えられないほどの思いで、日ごろ愛読する一冊の詩歌書を、手に持ったまま庭に出た。

 日は早や傾いて、庭の七分以上は陰になっている。そのうちにも風のよく来るところへ、前から涼み場を作って有るから、先ずそこに行き、椅子にもたれ、しばらく夕風に顔をさらしていたが、何時の間にか眠気が差してきた。

 本を自分の前の台の上に置いたまま、自分は椅子の上で眠り始めた。善人の寝顔と悪人の寝顔とは、おのずから別である。善人はいくら心に心配が有っても、何処にかゆったりとした所が有って寝顔が美しい。

 特に夫人は、何の夢を見ているか、この時に限り口元に軽い笑みが浮かんでいる。俗な人生の笑みではなくて、直ちに天の霊に通じるかと思われるように、神気を帯びている。古今幾多の画工、彫刻師、その他の美術家が写そうとして写せないのは、このような笑みである。

 ちょうどこの所に入って来た一紳士、
 「ハテ、誰も居ないのかな。」
とつぶやき、そろそろと歩んで寝姿の辺まで近寄った。

 そもそもこの紳士は誰れ。



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