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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

    八十七 「お父さんは眉目(みめ)が好い」

 河田夫人の切なさを良彦は知るはずが無い。ただひたすらにきっと喜んでくれるだろうと思って来たのが、そんなに喜ぶ様子が見えないので、又も念を押すように繰り返し、
 「エ、夫人、嬉しいでは有りませんか。貴方は喜んでくれませんか。」

 夫人は血を吐くほどの思いで、ようやく返事をした。
 「ハイ、喜びますとも。」
 良彦;「では、やっぱり嬉しいのですね。」
 夫人;「ハイ、嬉しいと思います。」

 この時ばかりは、良彦が早く立ち去ってくれれば好いと夫人は思った。何しろ大変な事柄だから、早く一人になってじっくりと考えて見たいのだ。けれど、じっくりと考えるまでも無く、良彦のために決して好いことではないという事だけは確かだ。

 この子が出来たために、後々良彦の身がどのようなことに成るかも知れない。こう思うと、何にも知らずにただ喜んでいる良彦の性格が痛ましい。
 夫人は我知らず、「オオ、良彦さん」と言って彼を抱き、あたかも、振りかかる危うさに対して、彼を保護するようにした。

 そして尚も、
 「エエ、罪の無い貴方の心がいっそう、うらやましい。何にも知らない身がどれほど幸せかも知れない。」
と言い、止めようとしても止まらない一滴の熱い涙が良彦の頭髪の上に落ちた。

 良彦は飛び退いて、
 「オヤ、貴方は僕の頭へ、何だか落としましたね。」
と言いながら頭をなでた。そしてその手に止まった露のようなものを見て、
 「貴方は泣いたのですか。これは涙だ。アア、泣いたんだ。泣いたんだ。」

 夫人は何とも返事をすることが出来ない。
 良彦;「又、死んだ子のこととかを思い出しましたね。」
 夫人;「ハイ、そのことをツイ思い出しました。」
 良彦;「貴方のそばでは、子供の話しは出来ませんね。そうと知ればこのようなことを知らせて来なきゃ好かった。」
と何だか後悔しているように見える。

 夫人はあわてて、
 「何の貴方、知らせてくださったのは有り難いのですが。」
 良彦;「家に帰ってお父さんに何と言いましょうねえ、河田夫人は死んだ子のことを思い出して泣いたと。」
 夫人;「イイエ、泣きは致しませんよ。たいそうお目出度いと、どうか喜んでいたとおっしゃって下さい。」

 良彦;「本当に喜んでいるのか何だか分からないもの。」
 夫人;「イイエ、貴方の喜ぶことなら私は何でも嬉しいと思いますよ。」
 良彦;「では帰ってそう言いましょう。夫人が大層喜んだと。」こう言って、早や立ち去ろうとするのは、いつもほど居心地がよくないと見えた。もっとも人の泣く所に長居の出来ないのは子供の常である。

 夫人はまだ聞きたいことが沢山ある。実は弟が出来たと言うことだけで、まだその他の事は何にも聞いていないのだ。早く去れば好いと今思ったのに引き換えて、
 「まあ少しお待ち下さい。そのお子は、きっと眉目(みめ)の良いお子でしょうねえ。」

 もしや我が産んだこの良彦よりも、眉目(みめ)優れた子ではないかと思うのは流石に女である。
 良彦;「眉目(みめ)とは僕には分かりません。けれど愛らしい顔ですよ。貴方に良く似ているじゃ有りませんかと子爵夫人がお父さんに言っていましたよ。お父さんに似ているなら眉目(みめ)が好いと言うのでしょう。お父さんは眉目(みめ)が好いのですね。」

 品子がその様に言っていたかと思うと、決して良い心地はしない。彼女の威勢が、夫冽に対してまで次第に延びて行く様子がただこの一語で明らかに思いやられる。

 夫人:「シテ、お父さんは、―――イヤお父さんもきっとお喜びでしょうね。」
 この問いが夫人に取ってはほとんど死活問題である。良彦は事も無げに、
 「ハイ、喜んでいるようです。ですがね、さっき赤ん坊のほっぺにキスした時には、何だか悲しそうな顔でしたよ。」

 夫人;「エ、悲しいような、それは又どういうわけで。」
 良彦;「僕はよく知っています。亡くなった僕のおっかさんのことを思い出したのです。お父さんは、何かあると直ぐに僕のおっかさんのことを思いだすの。」

 真実に嬉しい思いが夫人の沈んでいる心にしみ渡った。
 「オホホホホ、その様なことがーーーイヤお父さんの心の中が、どうして貴方に分かります。」

 良彦は躍起になって、
 「分かりますとも、誰にも言わないけれど、僕だけには言います。時々ね、お父さんは静かになってしまい、一人でふさぎ込んでいることがあるの。その様な時にそばに行くのは僕だけです。行って見ると、何か机の引き出しから出して眺めているの。これは何ですかお父さんと聞くと、お前のお母さんが持っていた品物さと言って、大事そうに又引き出しに納めてしまうの。僕のお父さんは決して嘘などつかないから。」

 嬉しさも嬉しさ、悲しさも悲しさとは、夫人のこの時の思いである。その様にまで私を思ってくれるかと思うと、ただ腸(はらわた)がかき乱される様である。

 「けれど、私が死んだ者と成ったればこそ、そのようにも思ってくれる。もし、生きて今までそばに居たなら、決してそうまで大事にせられる事は無い。やっぱり私の家出の決心が好かったのだ。」と心の中で強いて自らを慰めるのは、実にはかなさの限りである。



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