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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

        八十八 「汝の地位を奪うて居る」

 この翌日である。瀬水城では、今度の赤ん坊に名前を付ける相談が始まった。
相談とはいうものの冽と母御と品子との間で取り決めるので、詰まるところは品子の一存で決まるようなものだ。

 品子の一存に任せなければ後々まで、何かに付けてやかましいので、
 「そなたの最も気に入った名が好いだろう。」
と冽から切り出した。
 「それはそうだが、この家には又、先祖から付けて来た名も有りますから。」
と横合いから牽制(けんせい)したのは母御だ。

 大体は品子に任せるが、なるべく先祖の名前の中から、選んでもらいたいと言うのだ。
 この積もりで母御は古い書類をこてこてと持って来た。どれもこの家の記録で、幾十代連綿と続いた系図書や、先祖の列伝などもその中にある。

 これらを品子の前に置くと、品子はこれだけの尊敬を受けるのは当たり前よと言う風で、系図書だけを一順目を通し、どうも満足できない顔で、
 「惜しいことをしましたよ、どうしてもこの家の先祖のうちで一番好い名前は良彦です。良彦と言った方が第一の英雄です。」

 冽;「でも良彦と言う名は既に兄のほうに付けたのだから」
 品子;「それだから惜しいことをしたと言うのです。アノ時に私が選び出してやりさえしなければ、その名が今まで空いているところですのに。」
 昔、澄子の願いを邪魔するためにしたことが今はその身に報いている。世の中は妙なものだ。

 品子は不興に絶えない様子で、そばに居る婆やの膝から自分の膝に赤ん坊を抱きとって、
 「坊や、本当に貴方は損な生まれだねえ。この家の良い物は何でも兄の方に取られてしまう。」

 冽は少し聞きとがめる様に、
 「何も兄弟の間に損得などと言うことは無い。」
 母御は母御だけに、
 「この家の先祖はいずれ劣らない英雄ですよ。悪い名は一つも有りません。」

 品子;「では何とでもお二人でお付けください。」
と投げ出すように言った。
 一度すねて、機嫌をとらせて、そして我意を通せば、我意も我意らしく見えずに済む。

 冽;「その様に言わなくても、初めからそなたに任せてあるのだから、良彦の名のほかでそなたが気に入ったのを選ぶが好かろう。」

 母御は何とも言わない。その何にも言わないのを、言わせるように、
 「でもそれではお母さんが御気に召しませんよ。」
 母御は乗せられた。
 「何も私が気に召すの召さないのと言うことは有りません。貴方の子ですから貴方が好きな名を付けるのが好いではないか。」

 品子;「私の好きな名で好いのですか。」
 冽;「好いとも。」
 品子;「では先祖のお名前を、どれこれと選り好みをするのも好くありませんから、いっそ何処へも関係なく、私は品彦と付けますよ。」

 母御も冽も、これには少し呆れたけれど、とうとう品彦と決めてしまった。昔、澄子が父の名の一字を懇望したのには難癖をを付けて、今は自分の名の字を遠慮も無く我が子に付けた。その駆け引きのすごい事は、真に外交的手腕とも言うべきもので、ある国の外務大臣などに少し分けてやりたいほどである。 

 品子の子を品彦とは確かに我が子と、誰の目にも分かる銘を打ったようなものだ。兎も角、品子は大満足で誰が来てもこの子を見せる。いや、むしろ拝(おが)ませる。子を愛すると言うよりも自慢するのだ。

 真に母の心に備わっている自然の優しい慈愛、いわば河田夫人が良彦を愛するような情けの愛は、品子には誠に少ない。ただよい子を産んだということが嬉しいので、事業家が資本を得て喜ぶのとたいした違いは無い。

 この様な訳だから、誰でもこの子を褒(ほ)めさえすれば気に入られる。中にその辺の機微(きび)を見て取った者は、
 「まるで父上生き写しです。未来の瀬水子爵として、失礼ながら今の良彦さんよりもどれ程似つかわしいか知れません。」
などと言って喜ばせる。イヤ、喜ばれる。

 このような追従は、そうでなくても真っ直ぐでない品子の心を益々横のほうに曲げてしまう。この子が真に未来の瀬水子爵となればよいのに、この家を相続すれば好いのに、エエ、邪魔な良彦が有るばかりにと言う妄念が、ただ日に日に募るばかりだ。

 「いくら成長しても、爵位も無く、領地も無く、ただ瀬水家の当主からわずかの手当てを受けて月々を送るばかりだ。」
と、自分の心に繰り返して自分の愚痴を益々増長させ、

 「あいつがお前の地位を奪っている。ちょうどあいつの母が子爵夫人という私の地位を奪っていたように。」
など言い聞かせる。実にどっちが奪っているのか、世は逆さまだと言いたい様だ。




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