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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

nonohana90

野の花(後篇)

トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

    九十 「オヤ彼(あ)の背姿(うしろすがた)は」

 行くと決まっては別に用意も何も無い。直ぐに河田夫人は良彦に連れだって住居を出た。道々良彦は自分が案内者と言うつもりで、行く先の里程や橋や小川の名などを説明する。夫人は聞かなくても勿論知っている。

 やがて一つの小山の説明になった。ここからは瀬水子爵夫人として輿入れした時、領地の人民に迎えられたところである。公園の尽きるところから、石畳の広い上り道となり、城の門まで続いている。

 この石畳の上に立って夫冽がその時人民総体に挨拶した。これらの様を昨日あったことのようにありありと思い出して、実に今昔の感に堪えない。けれど、何事も思い出してはならない。

 心の底から全くの他人と言うつもりで居なければならないと、堅く心を固めて居るので、弱い気持ちが起こるたびに、自分で自分を叱り、叱りして、なるたけ脇き目を振らないようにし、良彦の言葉にもなるたけ返事を短くしてほとんど、無言の状態でその辺を通り過ぎ、やっと、瀬水城に着いた。

 門から、玄関前の庭に入り、庭から玄関に上がるに従い、良彦は益々説明に忙しい。けれど、夫人は早や既に聞く力も尽き、少し休ませてもらわなければ、とてもこのまま子爵夫人品子に会うことは出来ないと思うようになった。

 「良彦さん、少し私は休ませてもらいませんか。」
と小声でいうと、
 「弱いですねえ、僕などはあの学校まで日に十回行き帰りしても、少しも疲れはしません。」
と良彦は答えた。

 ナニ、夫人は体が疲れた訳ではない。体は普通の女だけの健康を持っていて、特に近頃は重い責任に身を引き立てているので、自ずから筋肉も引き締まり、かえって、いつもより丈夫になっている程だけれど、唯、心が疲れたのだ。

 幸い玄関の廊下の脇に客の小休止のための部屋がある。夫人はしばらくここに入って息をついていると、良彦が気を利かせ、女中を伴って一杯の茶を出させた。

 しばらくして、いくらか気持ちが落ち着いたので、ここを出て廊下を奥の方に、なおも良彦の話を聞きながら、歩んで行くと、とある曲がり角のような所で、横の方からツと出て来た一婦人が良彦に向かい、
 「オヤ、この方がかねて噂に聞く河田夫人かい。」
と聞いた。

 そもそもこの一婦人は誰だろう。河田夫人はこの家に冽の母御が居ると言うことを、全く忘れていた訳ではないが、ほとんど忘れかけていた。今この声に、ハッと思い、頭を上げて見ると、まさにその母御だ。

 何しろ心に用意していなかったことなので、何と挨拶してよいか、考えが浮かばない。ただ頭を下げて口の中で何か何やら一言、二言つぶやいてすれ違った。母御は背後からその行く姿を見送って、少し眉をひそめた。

 「オヤ、顔はそうとも思わないが、後姿は、何という良く似たことだろう。いくらかこちらの方が肉は落ちているが、アレ、あの歩き振りまでそっくりだ。」
と言い、やがて又、
 「イヤ、イヤ、変死した者のことなど、思い出すのは不吉だ。」と言って、思い直して自分の部屋の方に去った。

 やがて河田夫人と良彦は二階に上る階段の間近かまで行ったが、今度は冽が客室に居て、良彦の声を聞いて、ここに出て来た。

 「オオ、河田夫人ですか。二階に子爵夫人がお待ち申しているようです。」
と言い、更に良彦に向かい、
 「後で河田夫人に絵画室などをお見せしなさい。」
と言葉を添えた。

 実にこの夫人がその絵画室を初め、この子爵家総体の正しい女主人公であるとは、彼は夢にも思い寄らないのだ。夫人はここでも頭を下げ、誰にも聞き取れない返事を一、二言つぶやいて行き過ぎた。




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