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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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野の花(後篇)

ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

        九十一 「不幸にして母親似」

 いよいよ階段を上ろうとするとき、良彦は身を引いて、
 「ここから一人でお行きなさい。私が一緒に行くと、子爵夫人が喜ばないかもしれません。」
と言った。これは全くである。子爵夫人品子は自分の子が出来てから、兎角良彦を我が子のそばに近づけるのを好まない。その様子は良彦にもよく分かっている。

 河田夫人は良彦のこの遠慮が、何のためかと言うことはおおよそ察知したが、今更怪しみはしない。きっと、品子は良彦を継子扱いにしているのだろうと、前から思っていた。

 ここで、良彦を一、二言慰めてもやりたいけれど、その様な場合ではないから、ただ「ハイ」と言って、一人二階に上がった。案内はよく知っている。自分が昔、子爵夫人としてこの家を支配していたとき、自分の居間にしていた部屋もこの二階にあるのだ。

 その部屋を直ぐに、品子の部屋にするようなことは、まさか冽がしないだろうとは思うが、何となく気になった。やがてその部屋の前に来たが、見ると戸が閉まって錠が下りている。多分、私が家出して以来、誰もその部屋には入れないのだろう。これでも冽が私の記憶を尊重していてくれる一端が分かる。

 歩み歩んで、これが今の子爵夫人品子部屋だぞと、聞かなくても分かる一室の前に立った。入り口の戸を開け放してあって、中には品子が、女王のような身振りで、ソファーに寄り掛かり、赤ん坊を抱いている。

 河田夫人は外からこの様子を見たが、なぜか入り難かった。内から品子が早くもそれを見て、
 「サア、お入りなさい。河田夫人、前から貴方は子供がお好きとのことなので、この子を見ればきっとお喜びだろうと、それで、良彦を迎えに上げました。」
 何処までも恩を着せるような口ぶりである。

 何でこの子を見て喜ばしいことが有るだろう。とは言え、礼を言わないわけには行かない。
 「本当にご親切はーーー」
とまでは聞こえたが、声が細いため、後の「
 有難う存じます。」
は聞こえなかった。

 品子はこの様子を見て、この身の贅沢な様子と恵み深い扱いに度肝を抜かれたためだと思い、総て満足の思いを増した。
 「サア、まずこれへ」
と言って、河田夫人をそば近くの椅子に掛けさせ、

 「イヤ、貴方の噂は時々、人から聞きますが、学校の事務がよく行き届いているとの事で、私は喜んでいるのです。」
 河田夫人は聞きながら、赤ん坊の顔を眺めたが、強いて自ら落ち着けている心の中が、又荒波のように騒いで来た。

 いかにも、我が夫冽の子である。何処と無く冽の顔に似たところがある。このような子が、昔私をいじめて、いじめて、いじめ抜いて、この家から追い出し、そして後釜に座って、子爵夫人となった品子に生まれたかと思うと、青白い顔に、潮のごとく血色が上って来た。けれどもこれは少しの間だった。

 「この子を抱いて見たいでしょう。サア、お抱きなさい。」
と言って、品子はその子を、河田夫人の膝に出した。これは非常な特待である。この子を抱かせてやるのは、天の恵みを与えるよりも、まだ、一層人が有り難がるものと思っている。

 河田夫人は無言でその子を受け取ったが、受け取ると同時に涙が胸の底から込み上げて、ただ一滴だけれど、赤ん坊の美しい衣服の上に落ちた。品子はそうとは知らない。河田夫人がうつむいているのは赤ん坊に見とれているからだと思い、

 「どうです、瀬水子爵に似ているではありませんか。良彦よりもどれ程子爵らしいか知れません。」
 河田夫人は胸に剣を刺されるような気持ちである。品子は更に自慢そうに、
 「良彦の方は先妻の子なんです。が少しも子爵に似てはいないでしょう。あの子は不幸にして、母親に似たのです。母親と言うのが、顔も心も、あまりよくない女であった者ですから。」

 もし、品子が、この河田夫人を昔の澄子と知って、その意地悪な根性で、いじめる積りで言うにしても、これ以上に、河田夫人に苦痛を与えることは出来ないだろう。
 既に死んでしまって、この世にないことになっている者のことを、なおも他人に向かってまで、顔も心もあまり好くないとは、何と言う毒々しい女だろう。

 あの子は不幸にして母親似だなどとは、真に聞き捨てにならない無礼である。河田夫人は全身の骨々が、粉々に砕けるかと思うように、その身を震わせた。

 品子;「それだのにねえ、この家の後は良彦が取るが順序だと言いますが、実に残念では有りませんか。何方(どなた)でもそう言いますよ。私がこれを残念がるのは無理も無いと言って、イイエ、他人でも残念がるほどだと言って」

 言いかけたが、河田夫人のただならない身の振るえを見て、
 「オヤ、河田夫人、貴方はどうかなさいましたか。」




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