nonohana98
野の花(後篇)
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ミセス・トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
野の花
九十八 「危篤でしょうか」
何で冽がここに来た。全く河田夫人の気づかう通りである。良彦の身の上に容易ならない事があるため来たのだ。
『貴方にお願いがあって来ましたが、早速聞き届けて貰わなければなりません。』
と言うのが冽の最初の言葉であった。
挨拶らしい挨拶もせずに先ずこの通り言い出すのは非常な事柄に違いない。
夫人は心配に胸が波高く打ったが、何事と聞き返す勇気がない。
この学校に来て以来、冽に会うのは何度もあるけれど、自分から言葉を発して冽の返事を引き出そうとしたことは一度もない。全く冽の前に出ると、身がすくむような気がするのだ。冽の姿と冽の声とが、妙に夫人を金縛りにするような力がある。
それにまた、もし私の声を聞いて冽がそれと気づきはしないだろうかとの心配が大いにある。この心配のためにも、自分から言葉を発することが出来ないことになるのだ。
冽は夫人が何とか返事を発するだろうと待ったけれど、その様子がないので、二の語を継ぎ、
「良彦が病気になりまして、非常に心配な状態で、どうか河田夫人を呼んで来てくれと、日に何度も叫びます。学校の方は少しの間、助教師に任せて置くこともできるでしょうから、どうか、瀬水城に来て彼を看病、いや、看病と言っては済みませんが、どうなりと彼の気の休まるようにしてやってください。」
夫人は先ごろ良彦が、
「もし、僕が病気なったら貴方に看病して貰います。」
と言った言葉を思い出した。その時でさえも、不吉なことと思い非常に気にしたくらいだから、いよいよ、本当の病気と聞いては驚かずにはいられない。
「危篤でしょうか。危篤でしょうか。」
と聞き返した。これがほとんど、初めての言葉と思ってもよい。驚きでもしなければ、このように聞けないところであった。
冽;「危篤ではないだろうと切に望みますけれど、ないとは言い切ることができません。病気になってから随分長くなりますから。」
夫人は自分の声でないような低い声で、
「どれほど長くご病気ですか。」
とまた聞いた。
強(し)いて声を低くするよりも、喉がふさがって高い声が出ないのだ。
冽;「そうですね。父の気持ちではもう、半年も寝ているように思いますが、何でも三十日ほど前からです。付きっ切りに床に就いてからもう、三週間になりますから。」
言葉のほかに一方ならない落胆の様子が現れている。夫人は自分の苦労の上に、深く気の毒と言う思いを、これは冽に対して起こした。
「それで、どのようなご病気ですか。」
冽;「医者は一種の緩慢な熱病だと申しています。食欲も気力もすべてなくなり、何を見せても、聞かせてもうれしがる力さえ無いのです。そして、特に心配なのは少し脳髄にまで異常が及んだか、この数日はただ貴方の事ばかり言うのです。」
夫人は唇を震わせた。けれど、一言も言葉は出ない。本来なら、我が夫が互いの間に出来た一人息子の病気のため、妻に相談をしているのだから、妻として、少しでも夫の心配を軽くするように何とか慰めてやらなければならない。
実際慰めてやりたいのである。昔夫婦でいた頃ならどのようにするだろう。首にすがって、
「貴方一人の心配では有りません。」
と言いもするだろう。
「貴方がそう力を落としては私が困るではありませんか。」
と引き立てもしよう。今もそのようにしたいのである。そのような言葉が胸の辺まで上って来る。けれど、いちいちその言葉を押し静めるばかりだ。
女としてこのような異様な場面に出遭(であ)った者は昔からそう多くは無いだろう。冽はこの夫人が妙に言葉少なく、同情らしい一言さえ言わないのを見て、思ったより冷淡な性質だが、どうして良彦があんなになじんだのだろうとひそかに怪しんだ。
しかし、怪しんでいる場合ではない、どうしても、この夫人を連れて行かなければ、病人が治まらない。
「貴方が一週間やそこいらを留守にしても、学校のことは総て順序をお立てなさったと聞きますから、その方には心配は無いでしょう。ただ、良彦が願うだけでなく、父として私からも切にお願いします。」
河田夫人はこうまでも願わせるつもりではなかった。単に病気と聞いたときに、直ぐに行くことに心は決まっていたのだ。けれど、あまりの心配に肝心な承諾を言うことを忘れていたのだ。
「はい、行きますとも、これから直ぐに参ります。」