nyoyasha10
如夜叉(にょやしゃ)
ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2012. 4.16
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如夜叉 涙香小子訳
第十回
亀子を室の隅に誘い行き密々(ひそひそ)と談話(はなし)する伯爵茶谷立夫は亀子に何事を説き勧めつつあるのだろう。彼非常に愁いに沈んだ様子で直ぐには言葉さへ発せぬ故、亀子は女心に我が恋人の身に何か一大事が起こったに違いないと非常に心配し立夫の顔を覗き込んて、
「エ立夫さん何がその様に心配です。私にも聞かせて下さいな。黙っていらしっては一層私が気掛かりです。エ立夫さん、私に聞かせては悪い事ですか。」
と問う心には罪も無し。
立夫は猶(なお)も打ち沈み、
「ナニ何(ど)うせ和女(そなた)にも聞かさずには済まない事だが」
(亀)「それなら早く聞かせて下さいな。鬱(ふさ)いでばかり居(いら)しっては分かりません」
立夫は思い切りたる面持ちにて
「実は」
と云いて又嘆息す。
(亀)「実は何(ど)うしたのです」
(茶)「実は近々他国へ行かなければ成らないので」
(亀)「エ他国へ」
(茶)「爾(そう)さ、今まで和女(そなた)には知らさず居たけれど私には一人の伯父が有って其の伯父が地中海の東岸スミルナと云う所に住んで居る」
(亀)「では其のスミルナへ行くのですか」
(茶)「夫(それ)も何、大抵の事なら行きはしないが伯父は独身の上、兼ねてより病に罹り到底(とて)も今年の冬を越すことは出来ないだろうと云う事で、夫故唯一人の甥に色々言い残したい事があるから是非此の地へ来て呉れろと幾度も私への手紙だ」
(亀)「では貴方直ぐに行(いらっ)しゃるが好うございましょう。行かなければ甥の義理が立たないでしょう。」
(茶)「夫がサ、義理の立たないのは知っているがと言って和女(そなたを)茲に残して別れて行くのが何よりも辛いから」
と云うのは偽りとも思われず、真実に別れを惜しむの色顔の面に現れている。亀子が返事をしないのを見て立夫は又
「夫に伯父も亦私が和女(そなた)と結婚して一緒に来るのを待っているからと云う」
(亀)「オヤその伯父さんが早や私の事を御存知ですかへ」
(茶)「知って居なくてどうする。私が此の前の手紙に和女(そなた)の事を書き添えて近々婚礼して共に行くからと書いて遣ったもの。伯父は其の手紙を見て大層喜び、兼ねてより茶谷の血筋が是切りで絶えはせぬかと気遣って居た所、嫁の出来たのは何よりも幸いだ。直ぐに其の嫁の手を引いて蜜月の旅に来い。海辺(かいへん)の最も涼しい別荘を其の積りで空けて置くからと書いた返事を早速寄越した。」
(亀)「オヤ其の様な事を書いて寄越しましたか。」
(茶)「寄越したとも其の手紙を和女(そなた)に見せても好い」
(亀)「本当に親切な伯父さんですネ。私も早くお目に掛りたいと思いますワ」
(茶)「親切にかけては此の上なしサ。だから私も早く婚礼して伯父に安心させ様と思い、楽しみに待っていた所、三峯老人が不意の災難、和女(そなた)も当分婚礼はしないと云うし、私も達てと云う訳にも行かずこの様な困った事はない。早く婚礼さへすれば私も和女(そなた)の阿父(おとつ)さんの息子になるから和女(そなた)と共々に阿父(おとつ)さんの介抱をするけれど」
(亀)「其れハ爾(そう)でしょうけれど」
(茶)「爾(そう)でしょうけれど三峯老人の介抱は和女(そなた)が自分一人で仕て私には手伝わせては遣らぬと云うじゃないか。ナニそうきっぱりと言いはしないが婚礼をせぬのはそう云うも同じ事じゃないか。婚礼せぬ中は私と阿父(おとつ)さんは他人の様な者で私がこうもして上げたいと思っても差し出がましくてその様な事も出来ず、そうかと言って私が独りでスミルナへ行けば伯父がどれ程心配するかも知れない。夫に婚礼もしないうちに和女(そなた)を独りて置いて留守の間にもし和女(そなた)の心でも変われば私は本当に失望して死んでしまう外はない」
と益々打ち萎(しお)れる様子は男の身の愚痴ではあっても、真の愛情はこの様なものなのかも知れない。
(亀)「ナニ貴方が少しの留守に私の気が変わりますものか」
(茶)「だッて今でさへ婚礼の日を決めぬじゃないか。和女の阿父(おとつ)さんは何も婚礼するなとは云わぬのに和女が何故か婚礼を嫌う様で」
(亀)「ナニ貴方が約束をした今となり何で婚礼を嫌いましょう。父がアノ通りでは私が婚礼して父を捨てて家を出ると云う事は出来ぬじゃありませんか」
(茶)「ナニ婚礼をしたって父を捨てるに及ぶものか。阿父(おとつ)さんも御一緒にスミルナへ行くのサ」
(亀)「だって父は盲目ですもの」
(茶)盲目でも和女(そなた)と私が一緒ならこれほど確かな事はない。殊にスミルナは空気も好く冬暖かくて夏は涼しく阿父(おとつ)さんの為には何(ど)れほど好いかも知れぬ。家に居る方が気が楽だと云うかも知れないが家に居(いら)しっても仕方がないじゃないか。捨苗夫人だの松子夫人などが親切げに訪ねて呉れるけれどアレは親切じゃない。云わば硫酸で目を焼き抜かれた人の顔は何(ど)の様だろうと思い夫が見たくて来る様なもの。幸い阿父(おとつ)さんの顔が唯目を失った丈で外の所に怪我がないから夜会にも来いなどと招待する様なものの、若し顔でも焼け爛れて醜くなって居ればアノ夫人達は逃げて仕舞うよ。その様な水臭い人に慰められ此の巴里に居たとて詰まらぬじゃないか」
(亀)「ナニその様な人ばかりハありません。譬えば春野耕次郎さんやその妹の鶴子さんの様に毎日来てくれる親切な人がありますから」
と亀子が熱心に述べるのを聞き立夫は早くも春野耕次郎を我が恋の敵と思うように、
「ナニ春野、春野とは終日何所(どこ)へか雇われて日が暮れると茲へ来る若者だろう。アレが何故が親切だ。料理屋で晩餐を食べるより茲へ来るのが倹約だからそれで来るのだ。殊に又阿父(おとつ)さんが災難に逢った元はと云えばアノ人だろう。アノ人をラペー街まで送って行って遣ったから此の様な事にもなったのだ」
(亀)「爾(そ)う仰るは酷過ぎますよ。何も耕次郎さんが自分で手を下したと云うのではなし。夫にアノ人も自分が父に送って貰わなかったらこの様な事も無かったと云い何(ど)うかして曲者を探し出し此の敵を討ってやると散々に心配して居ますよ」
(茶)「ナニも他人のアノ男に曲者の詮索を頼むには及ぶまい。頼むなら私に頼むが当然と言う様な者では無いか。私は和女(そなた)が満更の他人をそうまで当てにするかと思うと気が揉めてならないよ。殊にアノ人は充分和女(そなた)に惚れているもの」
この一言に亀子は少しその頬を赤めた。立夫は早くも見て取りて
「夫れだから気を揉まずには居られる者か」
(亀)「私の心なら確かですから何も貴方がその様に気を廻す事は有りません」
(茶)「無いなら無い。早くその証拠を見せて呉れても好いじゃないか」
(亀)「何(ど)う証拠を」
(茶)「阿父(おとつ)さんに早く婚礼の日を決めて貰い三人一緒にスミルナへ行く様にするのが証拠さ。爾(そう)して呉れれば私は勿論病気で居るスミルナの伯父までも何(ど)れほど喜ぶか知れやしない」
とて是より猶(なお)も熱心なる言葉にて或いは上げ或るいは下げスミルナの景色を初め後々のことまでも様々に説き廻すに亀子は殆ど両の目に涙の浮かぶまで真実に心を動かし終に立夫の意に従がうに決し、
「ハイ夫れでは直ぐに父に願いましょう。願って父が好いと云へば直ぐに婚礼して父と一緒にスミルナへ旅する事に致しましょう」
と請け合った。立夫は此の返事を聞き早や我が生涯の望みを遂げた如く喜びの色を面に表し亀子の手を取り嬉しさのキスを移し猶その甘き言葉にて礼を述べんとするに、この時三峯老人の声としてコレ亀子は何処に居る、俺がこの様な貴婦人の相手を長く音楽の話など出来ぬ事は知っているじゃないかと叫ぶ。
亀子は匆匆にに立ち上がり、
「ハイ茲に居りますよ阿父(おとつ)さん」
と云いつつ父の傍に立ち行かんとす。その間際にも茶谷立夫は
「今の約束を忘るるな」
と云う如き目つきにて素早く亀子に目配せしたり 。
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