巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

nyoyasha21

如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 4.27

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如夜叉    涙香小子訳

                       第二十一回 

 「お呉れな」と軽く言う一言には実に千金の力ある。長々は殆ど拒み兼ねたが自分の心を鬼にして、
 「外の品と違い阿母(おっかぁ)の遺品(かたみ)だから肌身を離す事は出来ない。」ときっぱり言い切ったが乞食婦人は宛(あたか)もこの言葉を冗談と聞いた様に、
 「何の彼のと人をじらさずにお呉れなね。呉れなきゃこうして盗るよ。一旦言い出せば私も女の意地だから。」
と更に笑いながら長々の手を持って抜き取ろうとする。

 その仕こなしの巧みでその風情の嬌(なま)めかしさは流石カヂス座の座頭で殆ど有情男子をしびれさせてしまう。長々生が若し石心鉄腸の人でなかったならばきっとその手を引っ込めることが出来ず唯彼女が抜き去るのに任せて仕舞うところだったが長々はここに至っても石心だった。思い切ってその手を引っ込め、

 「本当に阿母の遺品だからサ」
 (乞食)「なぞと時代がかった台詞(せりふ)をお使いで無い。」
 (長)「イヤ本当だよ。」
  乞食婦人は少し怒りの色を現し、
 「好いよ、分かったよ。只で呉れるのは惜しいんだろう。人が又会うまでの記しににするからお呉れと言うのに阿母の遺品だなどとサ、巴里っ子ケチには本当に呆れるよ。私に只で呉れるよりよりは三十フランか五十フランで古物屋に売る方が得だからねえ。長さんお前は今に大金持ちになる人だよ。」

 (長)「何を言うのだ。五十フランが五百フランでも売るものか。」
 彼女は又調子を変え、
 「では千フランじゃどうだエ。千フランで私が買おう。好いじゃないか、エ、長さん、私は即金だよ。」
 (長)「お前も分からな過ぎるよ、何(ど)うあっても売れない品だから代価に拘わらないと言うのだ。」

 (乞食)「お前私をその様な空々しい言い訳に騙される様な白痴とお思いか。当てが違うよ。お前自分でその金言の文字さえ知らないじゃないか。阿母の遺品なら誰だって金言位は覚えて居るわ。好い加減馬鹿におしなア。分かった、お前何だよ私が千フランの金を持って居ないと疑ってそれで体好く断るのだね。痩せても枯れても大芝居の座長と言われる姉さんだ、ソレ千フランの金を見せて遣ろう。」 
と言いながらポケットをサぐろうとする。

 (長)「ナニ見せなくてもお前がそれ位の金を持っている事は知っているよ。千フランと言えば俺が1年の下宿代だから飛び付くほど欲しいけれどそれを嫌だと言ふからには深い訳があろうじゃないか。お前が何と疑っても家に伝わる品物だから。」

 (乞食)「貴族でもない家にナニその様な品が伝わるものか。私の家筋は三代前の船積み人足から続いている。お前も大抵似たり寄ったりの家筋だよ。立派な家の息子で無いことは酒飲むコップの持ち様でも分かっている。下等料理屋より外出入りしたことの無い人の子で無ければお前の様な無作法な持ち方はしない。何(どう)だ長さん、そのようなことに掛けては紳士にも貴公子にも交際(つきあ)うだけ私のほうが目が高いよ。お前の化けの皮はもう剥げたから大概に白状おし。何と言っても家に伝わる品じゃ無いから、それとも何かエ、他人にでも預かった品で馬鹿正直に返さなければ義理が悪いと思うのかエ。アアそうだ誰か女に預かったのだ。そうだろう、エ長さん、その女は誰だ。教えてお呉れ。私が自分で行き、お前には迷惑の掛らぬ様にその女から直々に買い取って来るから。サア誰だ、何処に居る女だエ。」

と或いは上げ或いは下げ檎縦自在(きんしょうじざい)《縦横無尽》に説き廻すのは世にも恐ろいき口前だ。中々自ら言うように二十歳以下の女とは思われず長々は宛も(あたかも)酔ったように唯聞き惚れるばかりだったが漸く(ようやく)にして我に返り。

 「俺がこの指輪を惜しむより、お前がそう欲しがるのが不思議じゃないか。お前にも是を欲しがる訳が有るだろう。」
 唯短い一言も千万言より痛い事がある。長々のこの問いは全く彼女の灸所を突いたか、彼女はすぐには返事も出てこなかった。唯僅かに最も余所余所(よそよそ)しい調子を以って、

「それはお前の知ったことじゃ無い。」
と嘯(うそぶ)いたが長々がやっぱりそうだったかと疑いの臍(ほぞ)を固めるのを見、彼女はこのまま捨てては置かれないと思い直した様に、
 「本当にお前は好く人の事を聞きたがるよ。私は古風な品物を集めるのが大好きで昔の物と聞けば銭金に拘わらず欲しいからさ。その証拠にはこれを御覧な、私の腰から上に纏(まと)うているのも古代織の切れじゃないか。」

と我が衣類まで証拠に引く。早速の機転彼女は何という才女であることか。彼女は更に口に任せ、
 「夫にサ、私は言い出した事を後に引くのは大嫌いだから。思わず知らず言い過ぎてしまったノサ。だがネ好く考えて見ればお前に何も意地を張るに及ばないからもう指輪の事は言わないよ。お前大事に持ってお出で。私も千フラの金が大事だ。明日は一番汽車でスペインへ帰らなければならない身だから、千フランを無くすれば旅費にも困る所だった。お前が強情を張り通して呉れたのは幸いサ。アア好かった好かった。長さんその積りで今一番一緒に踊り、それが済んだら外へ出て今度は英国館かホテル・ド・ヘルダアの様な本当の料理屋へ行き仲良く夜食をして分かれよう。」

 と打って変わった言い方に長々は殆ど夢路に迷う心地がしつつも何となく薄気味悪くなり、もしや体よく我を連れ出し外で手下の者に命じ力尽くでこの指輪を奪わせる企みではないかと疑い、更には我も又栗川巡査に会いこの女が『まあ坊』であるかないかを聞きたいと思うのでここは体よく断るに限ると、

 「いや相手が好い者だから思わず酔い過ごした。これでは息が切れるから俺はお前の踊るのを見ていよう。」
と云う。
 (乞食)オヤ私と踊るのがイヤになったのかエ。お前は本当に義理知らずだ。好し好しそういう了見なら外に相手は幾らもあると言いながら席を蹴立て起(た)ち隣のテーブルに集まって居た何者とも知れない男の手を取り、

 「サア一緒に踊りましょう。」
と言い、時ならぬ美人の降来に夢かと驚くその男を引き立ててこれ見よがしに舞踏室を指して躍り入った。この有様を見る長々生、今は全く半信半疑、彼女は真に『まあ坊』であるかそれとも自ら言った様にカヂス座の座頭ペピタで唯その聞かぬ気性のため飽くまでもこの指輪を手に入れようとしただけなのか、いずれにしても栗川の意見を聞くに限るととそのまま立って辺りを見ると、彼の天狗っ鼻の竹を初めその連中の魚売り女等も早や舞踏室に入ったと見え影さえも見えない。このような所の勘定は総て前金で払って置くものなので長々は、

 「思わぬご馳走になった。」
と呟き、舞踏室に入って行くと、一同の踊り狂う有様は前よりも更に盛んだった。見物人の数も又前よりは幾倍にもなっており身動きも出来ない程だったが、向こうの方に矢張り栗川の姿が見えたので、それを目当てに押し分け押し分け漸(ようや)くにしてその前に達し、

 「これ栗川君」
と声掛けると栗川はこの赤印度人の姿を見て驚くこと一方ならなかった。
 「おお、長々君だったか。先程から目を留めたが君とは全く思わなかった。実にうまく姿を変えたな。」
 (長)「この頃赤印度人の姿を彫って顔のつくり方を充分に覚えているから、この通り出来たのサ。だが君、今もあそこに踊っている乞食女を誰だと思う。あれが即ち『まあ坊』だろう。」

 (栗)「君は誰を見ても『まあ坊』と疑うが、大違い大違い、『まあ坊』は綺量自慢だから決して仮面など被りはしない。」
 (長)「綺量自慢でも、もし僕の疑う通り松子夫人と同人なら貴夫人の仲間入りをしている者がまさかにこの様な所へ来て顔をむき出しでは踊られないから多分仮面を被りもするよ。」
 (栗)「それはそうだがアレが若し『まあ坊』ならこの後踊りのあるたびに欠かさず来て踊るから分かるよ。踊りと聞いては一晩でも出ずに居られぬ女だから。」

 (長)「だがあの乞食女の姿が『まあ坊』に似ているか似ていないか。」
 (栗)「似た所あり、似ない所ろありさ。」
と語らう折りしもこの辺に立つ見物人は宛(あたか)も誰かに押される様に一同に動揺(どよめき)始め、津波の様な勢いでひしひしと波打ち来る。長々も栗川も今は話すことさえ出来なくなり、
 「コレ押すな押すな体が砕ける。」
と叫ぶ間に早や片隅まで押し詰めるられ、殆ど息することも出来なかった。

 群集の中ではこのような例(ためし)はあることだが、人々の押され苦しむ暇に乗じ時計、紙入れなどを盗むスリの巧みにかかることもしばしばあることなので、長々は何とかしてこの所を抜け去ろうと思ったが身動きさえも出来なかった。このような重ね重なる人の力は宛(さなが)ら磐石を以って押す様で、特に長々は栗川巡査に打ち向かいで話している間に我が背後(うしろ)からこの人波の押し始まったことなので何人が我を押すのかその顔も見ることが出来ない。

 今は唯押し潰ぶされるのを待つばかりだ。この危うき瞬間に在って何者のスリだろうか驚くべき強力で我が片手をしかと捕えメリメリと彼の指輪を抜き去ろうとする。スリの仕業か乞食婦人の手下なのか、長々はこれを防ぐ術もなかった。

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