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nyoyasha23

如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 4.29

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如夜叉    涙香小子訳

                     第二十三回

 天狗ッ鼻は長々の後を尾(つけ)て行く。長々はこれを知り、『まあ坊』も必ずこの辺に潜んでいるに違いないとそれとなく四辺(あたり)を見廻すとその姿は見えなかったが、何となくその手下の幾人も待ち伏せして、天狗っ鼻からの合図を待っている様な気がすので、ここで闘いば殺されることは確実だと思い只管(ひたすら)に足をを早めようやく皺婆(しわばあ)の店に逃げこんだ。
 
 婆は唯一人店先で居眠りして居たが長々の足音に驚いて顔を見上げ、
 「オヤ、大層早いじゃないか」
 (長)「早いけれど散々に踊ったから帰って来た。だがね、婆さん、己等(おいら)は今夜ありったけの銭を木戸銭《入場料》に払ったから衣類の損料はこの次まで待って貰わなければならないよ。」

 婆は以前から充分長々を知っているので、
 「お前の事だから待っても好い。着物はお前の脱いだままで奥の化粧の室(ま)に在るから早く行って着替えておいで。」
 長々はこの言葉を聞き流し、直ぐに奥の一室に入り、凡そ二十分ばかり掛けてようやく自分の顔を洗い落とし、衣類も着替えたので、若しやまだ絵の具の落ち残りはないかと思い、鏡に向かって顔を眺めると、この時鏡の台の上に虫眼鏡のあるのを見つけたので、是れ幸いと取り上げて先程から気に掛かる指輪の金言を照らして見ると、彫り付けてあるのは日耳曼(ゲルマン)語で、「車を用いず馬を用いず唯我が腕を用う」と読めた。

 察するにこの指輪の持ち主である伯爵の先祖の人が戦場に臨み敵を攻めるのに馬や車の力を頼まず、唯我が腕のみを頼むとの金言を彫ったのに違いないと長々は一人頷き幾度か繰り返して充分に覚え込んだが、さてこの金言は何伯爵の家筋のものだろう。

 指輪に彫った伯爵の被(かぶ)り物で伯爵家である事は明らかな事だが伯爵家は世に多い。若し我が初めから疑う様に伯爵茶谷立夫の品ならば立夫は『まあ坊』の松子夫人とは相当深い間柄である。 『まあ坊』はこの指輪を奪うため我を殺そうとするほどのならず者だから、その知り合いである茶谷立夫も並大抵の者ではない。アア我が師山峯老人はこの様な悪人にその娘とその財産とを奪われようとしているのだ。

 我は何(ど)うにしても二人の婚礼を妨げなければならない。だが父も娘も充分に茶谷立夫を信用しこれ以上の人は居ないと思っている居るものを、我は如何にしてその悪人であることを理解させたらよいだろう。

 我が言葉より茶谷立夫の言葉を信じ、却(かえ)って我の事を指しその婚礼を羨んで根も無いことを言う者と思うことは確実なので更にこの上に充分な証拠を集め、目の見えぬ老人にまで良く分かる様にしなくてはならない。そうは言えその証拠を如何にして集めたら好いだろう。

 今の所では唯この指輪一個だがそれと言っても真実茶谷伯爵家の品であるか又真実松子夫人が落としたのに相違ないか。夫人と『まあ坊』とが同人なるか。これらは総て唯我が心で認むるだけなので証拠を見せろと言われた時、見せる証拠は一つもない。

 アア如何にしたら好いだろうかと少しの間思案に暮た末、撥(はた)とその膝を叩き、好し好し質屋の店先で春野鶴子に約束した様に、明朝この指輪を持って軽根松子夫人の所に行けば夫人が落とし主であるか否かを確かめるのは難しくない。次には鶴子に言い含め亀子に会って茶谷伯爵の家の金言は何んなことかと聞かせれば亀子は自ら知らなくても必ず伯爵に聞く事だろうから、伯爵も又自慢そうに答えるに相違ない。

 その答えた金言が、
 「車を用いず馬を用いず唯我が腕を用ふ。」
と云う語ならば是に増す証拠はない。指輪は即ち茶谷立夫の品で落としたのは松子夫人だと言えば誰か又松子と茶谷の間に秘密の関係があるのを疑うだろうと長々は少しの間に戦争の手続きを考え定め、憤然として立ち上がると、この時お皺婆は余り長々の遅いのを疑ってかここに来た。

 「長さん、お前表の大戸を下ろしてお呉れでないか。」
と言う。長々は、
 「好し、降ろしてやろう。」
と言い、その儘(まま)店先に出でながら大戸を一枚降ろそうとすると、戸の外に異様な足音があった。見れば天狗ッ鼻の竹を初め外に四、五人の大の男が、隣の軒の下に潜んでいた。これは疑う迄もなく長々がここを出るのを待ち人通りの無い町まで尾(つ)け行って叩き殺そうという決心だ。

 長々は知らぬ顔で大戸を閉め終わり、内に入って静かに婆に向かい、
 「今夜俺をここに泊めてお呉れ」
と云う。婆は怪しみ、
 「何をお言いだ。ここは店だから寝ることは出来ないよ。私でさえもここに寝泊りはしないのだもの。」
 (長)「いやお前が毎日ここに出張し、寝る時に帰ると言う事は百も承知だけれども、今夜俺はこの外へ一足でも踏み出せば叩き殺されてしまうから助けると思って泊めてお呉れ」

 婆は急に身震いし、その声を最も低くし、
 「では何かえ、先から天狗の様な鼻の男が幾度も店を覗くが」  (長)「それだ、それだ。その男が俺の命を狙っているのだ。コレ婆さん、こうしねえ。お前もこう夜が更ければ一人帰るのは危険だから椅子に掛けたまま眠ればその中に夜が明ける。おいらも傍に居てやるから、ナニ幾ら曲者でも夜中に戸を破って入りはしない。殊に交番も直ぐそこにあるし。夜が明けて少し人通りがある様になれば彼等も立ち去るし、おいらもお前も安心して帰られるから。」

と必死になって説き伏せると、婆も恐ろしさのためその気になり、椅子の上に毛布を載せ居眠る用意を整えながら、
 「だが長さん、お前如何してあの様な者に狙われる。」
 (長)「ナニ踊りの相手争いから喧嘩になったのさ」
 (婆)「アア好くある事だ。先が美人と踊っているのをお前が横合いから取ったのだろう。もうそんな事はせぬ様におしよ。」

 (長)「俺ももう懲り懲りした。だがね、婆さん是は又別の話だが、お前もし『まあ坊』という女を知っては居ぬか。」
 (婆)「アノ横傷の『まあ坊』か。踊りが上手な」
 (長)「爾々(そうそう)その『まあ坊』さ」
 (婆)「七、八年前には良い得意だったがその後さっぱり音沙汰なしだ。死ぬるか外国へ行ったのだろう。あれも本当に惜しい者だよ。辛抱してさへ居れば今頃は立派な財産家になっているのに、博打が好きな男を情夫に持ってサ、その男に入れ揚げて仕舞い、借金ばかりになって、何でも姿を隠したのもその為だろう。」

 長々は是だけの言葉を聞き殆ど千金を拾った心地で、お前その情夫の名を知っているか。」
 (婆)「名は知らないが姿は見た。色の白い中々の好い男であったよ。」
と言う。是だけではもとより分かる筈もないけれど、何とやら茶谷立夫のことかと思われ、長々は、

 「フム、面白いぞ」と呟いて少し心で考えた末、再び顔を上げて 「その男が今居れば幾つ位になるだろう。エ、婆さん。」
と問い返すと、お皺婆は少しの間に早や眠りに就き、唯鼾(いびき)の声を聞くだけだった。

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