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nyoyasha25

如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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如夜叉    涙香小子訳

                  第二十五回

 長々は今夜こそ松子夫人の頬に横傷があるかないかを見、更にその外にも油断なく気を付けて彼女と『まあ坊』と同じ人であるかないかを見破ろうとの決心で三峯老人及び亀子に従がって捨苗夫人の家に行った。そもそもこの捨苗夫人とは何者だろう。夫人と称するからは必ず一たびは所夫(おっと)を持ったに相違ないだろうけれど十年前から夫人を知っている人の話によればその頃既に後家(未亡人)だったとの事なのできっと婚礼間もなく夫に死に分かれた者だろう。

 夫人自身の言葉に由れば、その夫は余程の豪商で死ぬ時幾十万の財産を夫人に残したので、夫人は今日までも何不足なく暮すことができたとの事。是も満更の偽りではなく、その証拠には近傍に夫人の名前になっている家作地面など数多ある。それから取り立てる地代及び家賃だけても月々の暮らしには足りるに違いない。

 しかし又一説には夫人の家は婚礼の媒酌所とも言うべきで、ここに来る女の中で多くの財産のある者をそれ程財産の無い男に取り持ち、いよいよ婚礼が済んた後に男から持参金の二割位は手数料として貰い受けるのを商売としているなど言う話もある。是は唯口さがない者の悪口に留まるべきではあるが、何しろ交際上手にして町人も行き紳士も行き、令嬢もここに集い貴族もここに集う程なので今迄にも夫人の家で紳士令嬢互い見初め、好夫婦となった者は幾組もあるとの事だ。

 夫(それ)はさて置き、長々は入って行って夫人に一通り挨拶を済ませた後は三峯老人と亀子を茶谷立夫に任せて置き、自分は外に誰か相手は居ないかと室中を見廻すと彼方の隅に当たる所に前から親しくしている画工で筆斎と名乗る若い男が居た。画工と言い彫刻師と言い共に美術の仲間で話の口調も合う為に、長々はその傍に進んで行き、様々の話しを始めた。

 (長)「筆斎君がここへ出入りするとは知らなかったが。」   (筆)「ナニ僕もこの様な礼儀正しい場所へ来るより、君と一緒に居酒屋で飲む方が愉快だけれど、師匠から女房でも持たなければ身が締まらないと言われるから女房でも探す積りで先頃から出入りしているのさ。」
 (長)「止し給え、女房などは今持てばそれきりで腕が上がらいぜ。だが気に入った女でも見つかったかね。」

 (筆)「これぞと思う女はない。まあ如何してもここでは君の師匠の娘が第一等だよ。」
 (長)「アノ亀子が第一等でも仕方が無い。既にアノ通り許婚が出来ているから。」
 (筆)「フム茶谷伯とか、その事は既に聞いたが一体全体三峯老人は如何してアノ様な者を婿に承知したのだろう。」
 (長)「老人は目が潰れてからは娘の言いなりにしているからサ。だが茶谷は悪人かね。僕も余り好みはしないが。」

 (筆)「悪人と言って何も人を殺すとか盗みをする様な事は聞かないが兎に角貴族社会では少しも信用がない。アレでも茶谷と言えば昔の十字軍の頃から続いている立派な家筋だが彼に到って目茶目茶だ。」
 (長)「でも財産は大分あるということだ。」
 (筆)「怪しいよ」
 (長)「だって君、亀子と婚礼するからには双方の公証人が立ち会って身代を調べるからまさか無いものをあるとは言うまい。彼が老人へ話したには何十万の財産だと言う事だ。」

 (筆)「それは如何か知らないが先ず申し分の無い人ではないよ。その証拠が見たければ僕が面白い所へ連れて行き彼奴(きゃつ)の本性をを見せてやろう。」
 長々はこの一語に勇み立ち、
 「ナニ、彼奴(きゃつ)の本性、夫(それ)は面白い、直ぐに見せてくれ給え。何処に行けば彼奴(きゃつ)の本性が分かる。」

 (筆)「何処でも良い。黙って居給え。彼奴(きゃつ)は中々の去る者でうまく猫を被(かぶ)って居るが、若し三峯老人にでもその所を見せてやれば必ず二の足を踏むにに決まっている。」
 彼が本性とは何れの場所であるか、又如何なる本性なのかは知らないが、長々は唯夫(それ)が見たい一心で、

 「何時連れて行って呉れる。」
 (筆)「今夜この席で有名な音楽師の歌を聞き、その後で一緒に行こう。」
 (長)「好し好しそれは有難い。」
 (筆)「歌と言えばあの茶谷も中々喉が良く、哀歌などはうまく歌うぜ。夫(それ)だから大抵の女が彼の歌うのを聞いて夢中になる。君の師匠の娘なども矢張りその一人だ。」

 (長)「爾(そう)かも知れない。彼奴(きゃつ)は今夜も軽根松子夫人と掛け合いで歌うという程だ。君軽根松子というのは余程有名なのだろうか。」
 (筆)「有名だと言うけれど僕は今迄聞いたことがない。パリで歌ったことの無い歌姫は容易に信用できないよ。何しろ今夜はその声を聞くのだから下手か上手か今に分かるよ。」

 (長)「夫(それ)は爾(そう)だ。」
 (筆)「言ううちにそれ軽根夫人が遣って来た。」
と言う。そうと聞いて長々は振り向いて見ると成る程夫人は入って来たところだ。その容貌の美しさは今更に言うまでも無く殊に上品な衣服を着けていたので宛(さなが)ら天女の来降かと怪しまれる程だ。筆斎は呆るるほど驚いて、

 「これは綺麗だ、この様な美人を肖像画に写したいなあ。」
 長々は無言で夫人の振る舞いを眺めて見ると、その歩く様子は静かにしてその動く様子はしなやかで優美そのものだ。先夜公園で我が手にすがり跳ねに跳ねて踊った『まあ坊』とは実に雲泥の相違である。是もまた美しさに驚き賞賛のあまり、

 「是は美人だ、先日師匠の家で見たより又一層美しい。」と叫んだ。筆斎は是を聞き、
 「君は今見るのが初めてではないのか。」
 (長)「初めてじゃない。先日捨苗夫人が連れて師匠の許へ来たのを見た。師匠は手探りでアノ姿を彫刻したいと言い、熱心に機嫌を取っていた。」

 (筆)「じゃァ君早く僕を連れて行き、美人に紹介をしてくれ給え。」
 (長)「イヤ爾(そう)はいかん。僕は唯逢ったばかりでまだ口を利いた事も無いから。」
 (筆)「では二人で捨苗夫人に紹介して貰おう。」
 長々は、
 「好し心得た。サア行こう」
と早速に承知した。彼は今は既に松子と『まあ坊』とは全くの別人である事を信じながらも、一旦深く根を下ろしてしまった疑いは容易に消えるものではないので傍に寄り、近くでその顔を見、且つ言葉を交わせば夫人が若し『まあ坊』であるならば我が声に聞き覚えあって必ずその様子に現れるところがあるだろう。

 「探偵の秘術はこの辺なり」
と呟きながら長々は筆斎と共に松子の傍に進んで行った。

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