巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

nyoyasha26

如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 5.2

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如夜叉    涙香小子訳

                 第二十六回

 松子夫人が入って来て、満堂の来客は誰もがその容貌が聞いて居たより直一層美しいのに驚き、言葉も発することができず、唯その顔に見惚れるばかりだった。主婦なる捨苗夫人は宛(あたか)も見世物師が最も珍しい品物を見物に披露するように誇り顔に松子の手を取り、皆さん此の美しさを御覧ください。世界に二人とはいないでしょう。」
と言わないばかりの面持ちで満堂を尻目に掛けた。

 唯亀子及び茶谷立夫等は今見るのが初めてではないのでそうまでは驚きはしなかったが、非常に嬉そうに代わる代(が)わる挨拶し目の見えない三峯老人も熱心に松子の手を握った。この所へ礼儀正しく歩み寄る二人の若者、これこそ画工筆斎と彫刻書生の長々生である。筆斎はチャンスがあればこの美人の顔を写し取ろうと思い、長々はその左の頬に横創があるかないかを見て消え残る我が疑いを晴らそうと思っているのだ。

 捨苗夫人は二人の近づくのを見るとすぐに紹介を求める心と悟り、「サ松子さん、この二方は何れも末頼もしい美術家です。この方は筆斎君にこの方は長々君」と引き合わすと松子夫人は名も知れぬ美術家を軽蔑する様子もなく、「オヤ爾(そう)ですか。筆斎さんのお名前は以前から聞き及んでおりました。長々さんには先日三峯老人のお宅でお目には掛りましたが、この後お二方とも益々親しお付き合いをお願いします。」
と言う。

 その声その調子、上品にして優美なりとも言うべきか、虚飾に過ぎず阿諛追従に流れず実にヨーロッパ全州の舞台を踏み尽くして今はその足を洗おうとする偉大な音曲師の作法に恥じない。傍に在る三峯老人は羨ましそうに起き上がって、

 「筆斎も長々も実に幸せな奴等だ、俺はこの様な美人の前へ出てもその顔を見ることも出来ないが、コレ長々、貴様は充分にお辞儀をして居るか、筆斎も何故早くお顔を拝見してこの上もなく有難う存知ますとか何とかうまくお礼を言わないか。このような手本は又と拝見することは出来ないぞ。」
とかえって我が言葉の失礼にあたるのも知らずに、熱心に進み出る。

 娘亀子は決まり悪そうに、
 「アレ阿父さんは松子夫人を手本だなどとその様な事を仰っるものではありませんよ。」
と留める。松子夫人は思わずも笑みを浮かべ、
 「イエ、老人の仰ることは一々心の誠が現れ、私の身に取ってハどの様にうれしうございましょう。」
と聞いて老人は又進み、

 「ソレ見ろ、俺は小難しい礼儀ハ知らないが、手本になる美人とならない美人ハ目の明いた人より良く見分けられる。コレ長々も筆斎も何故黙っている。アア夫人の顔に見惚れているのだな。」
 実に長々は夫人の顔に見惚れていた。若しこの夫人が『まあ坊』ならばと今迄思っていた心も何処へやら消えてしまって唯その気高く近づき難い容貌に度肝を抜かれ、何と言って挨拶したら良いかその言葉さえ浮かんで来なかった。

 流石に筆斎は画工だけに少し交際にも慣れていたので臆する色なく口を開き、
 「イヤ我々は巴里の都に住みながらも田舎者同様で、高名な松子夫人のことはお名前さえ今までは聞き及びませんでした。」
と言う。アア彼ハ先刻長々に向かい、
 「巴里の舞台で歌った事のない歌い女は簡単には信ずるべきでない。」
と言ったが、今も猶幾らかの疑いを抱き松子夫人の口占いを引かんとするか。

 彼の言葉は非常に謙遜そうではあるが謙遜の中に一種の意味を含んでいる。松子夫人は早くもそれを悟ってか、
 「イイエお聞きにならないのは御尤もです。巴里中で私を知った人は幾人も有りません。私は幼い頃からイタリアへ行き、ベニス府で所夫(おっと)を持ち歌などは人の前で歌った事もない程にして居ましたが夫が鉄道の計画で破産してそれを苦に病み亡くなりまして、その後は私一人路頭に迷うほどに落ちぶれましたから幼い頃に声が好いと言って師匠に褒められたのを覚えて居て歌姫にでもなろうかと思う所へ露国からベニス府へ歌女を雇いに来たと聞きましたからその群れに馳せ加わって露国へ行ったのが初めてで、露国より外では歌ったことが有りませんから。」
と身の恥を隠しもせず有りの儘を語り出すその心に偽りが無いのはかえって聞く人の尊敬を増すことになった。

 筆斎は猶屈せず、
 「では捨苗夫人にお逢いなさるのも余程お久しぶりの事でしょうね。」
と問うその心には幼い頃からイタリアに行って居た者が何故捨苗夫人とこうまでに親密なのかと疑いを含んでいるのだ。

 他人はこの問いを何とも思はなかったが悟るのが早いのは女の常である。松子夫人は淀みもなくハイ丁度二十年振りです。夫人は私の為には縁の遠い伯母に当たります。私はイタリアへ行っても是と言う友達もなく唯この国が恋しくて捨苗夫人の許へは絶えず手紙を寄越し夫人からも時々その返事を受けていましたから。」
と言う。

 これを聞いて筆斎も満足すれば長々も全くに疑いを解いた。彼は先程から心を込め夫人の声と先の夜公園で踊った『まあ坊』の声と似た所があるかないかを気を付けて居たが、更に似た所を聞き出すことが出来なかった。共にりょうりょうたる音調なれどあちらは荒くこちらは柔(やさ)しい、且つその語調も全く違い、殊に松子夫人の淑やかな振る舞いはあちらの活発だったのに較べる事も出来なかった。

 又髪の毛に至りてもあちらは漆の様に黒かったのに対し夫人のは金色である。髪の毛にはこの頃染めて洗い落とした様な痕跡は見えなかった。何れのところを見較べてもこの夫人と彼の『まあ坊』は全く別人に相違なしと長々はここに至りて我が疑いの間違いだったことを悟り得たけれど、猶疑わしいのは彼の指輪だ。

 落としたのは確かにこの夫人と思ったが『まあ坊』がそれを欲しがり我を殺しても奪い取ろうとしたのに対して、この夫人が我より届けたのに覚えなしと言って受け取らなかった所を見れば夫人の落としたものではなく、『まあ坊』が落としたものなのか。唯我も鶴子も『まあ坊』が松子夫人に似ているため彼女を是と見間違ったものに違いない。

 だからと言って今思っても、優々と質屋を出た女の姿はこの夫人に相違なかったのだが、アアあの夫人を『まあ坊』としたら真に栗川巡査の言った様に『まあ坊』とこの夫人は瓜二つだ。似た人もある者だなと殆ど我が眼を疑いながら再び夫人の顔を見ると宛(あたか)も研き上げた蝋細工の様に一点の疵もない。

 この上は仕方がないから茶谷立夫に出し抜けにこの指輪を見せ、彼の品であるか否かを問おうか。イヤイヤそれも迂闊にするのは難しいと長々は決断することが出来なかったので無言のままで隅の方に退いて一同の様子を眺めて居ると、是から松子夫人は捨苗夫人の紹介で更に何人かの紳士令嬢に挨拶し、終に前からの約束の通り茶谷立夫と共々にピアノの台に上った。

 立夫は先ず手袋を脱ぎ音楽の譜を開いて、一枚一枚繰り返す。長々はその手に目を留め、
 「フム、彼奴(きゃつ)小指に子の様な指輪を嵌めているが若しや本物が無くなったので仮に是に似た偽物を作らせ、それを嵌めて居るのじゃないか。先夜『まあ坊』に見せた様にこの指輪を彼に見せてやりたいな」
と呟いた。その間に早や松子と立夫は気に入った一曲を探し出し愈愈歌い始めようとする。

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