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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

nyoyasha27

如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 5.3

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如夜叉    涙香小子訳

                     第二十七回

 今や松子夫人は歌い始めようとする。諸人は息を殺して注目している。長々はこの有様を見、
 「アア同じ女でも運と不運は違うものだ。松子夫人がこの通り多くの人に尊敬せられ楽しそうに歌うのに引き替え、春野鶴子は今頃下宿屋の二階で薄暗いランプに向かい内職の作り花に肩の張るのも知らずに居るだろう。兄耕次郎が偶(たま)にはこの様な席へも連れて来てやれば良いのに。」
と一人つくづく感ずるうちに、松子夫人は早や茶谷立夫と掛け合いにて歌い始めた。

 その選んだ一曲はこの頃の浅はかなる新作と違い、昔の作者何某が或る貴夫人と紳士の為故々(わざわざ)作った掛け合いの歌でその調子は松子と立夫の声にはこの上もなく好く調和した。二人は今迄一緒に歌った事はない筈なので、前もって言い合わせしたのではない事は勿論なのに、こうも二人の声に調和するものを選んだ事は不思議と言うほかはない。

 松子の声は飽くまでも豊かにして、立夫の声は非常に練れていたので、一急一緩一弛一張彼なた高ければこちら低く、こちら上がれば彼なた抑える。その面白さには、
 「音楽と牛の鳴き声は大嫌いだ。」
と言い放った三峯老人までも感動した様で、節々に膝を叩いて思わず知らず、「旨い」との声を発す。

 二人が一曲終わった頃には満場唯喝采の声のみにして紳士は只管(ひたすら)松子に酔わされた様に、貴夫人令嬢達は悉く立夫に心蕩(こころけとろ)かされた様に見える。殊に立夫が許婚である亀子の喜びは並大抵でなく、このように素晴らしい能力を持つ男性を選び得たことは我が身の生涯の名誉であると思う色が顔に現ている。長々は之を見て、

 「アア、耕次郎と鶴子がここに居ないのは却って彼等の幸いだ。亀子がアノ通り茶谷に心酔する所を見せたら耕次郎は素より鶴子までもどれ程か辛いだろう。」
と一人呟き終わる所へうろうろと歩み来るは彼の画工(えかき)筆斎で、
 「長々、君、今の歌を何と思う。」
と小声に問う。

 長々も小声で、
 「何だか知らないが二人とも滅法上手だなア、僕は非常に感心した。」
 (筆)「フム、感心するようじゃ全く素人だよ。まだ音楽の話は出来ない。」
 (長)「デハ君は二人を下手だと言うのか。」
 (筆)「そうではないが上手なのは茶谷伯爵サ。素人には惜しい程の芸人だが。」

 (長)「松子は何うだ。」
 (筆)「アレはまだ音楽のいろはも知らない。唯生まれつき非常に好い声で如何にも上手らしく聞こえるけれど、調子に乗らない所が幾らもある。詰まり喉が良過ぎて自分の声を控える事が出来ないのだ。公園の様な騒々しい所で歌うには好いかも知れないが、静かな座敷で歌っては、少し音楽思想のある者は皆見破るよ。之で見ると歌女として露国へ雇はれて行き、大喝采を博したと言うのは丸で嘘だ。」

 (長)「まさか爾(そう)でもあるまい。捨苗夫人が此の通り肩を入れる位だから。」
 (筆)「ナニ捨苗夫人は亭主もない女と聞けば誰にでも肩を入れ婚礼をさせて遣るのが商売と言う程だから、当てには成らぬ。もう面白くない、サア行こう。」

 (長)「行こうとハ何処へ」
 (筆)「オヤ君はもう忘れたのか。僕が伯爵茶谷立夫の本性を見せてやる言ったのを。」
 (長)「ウム、それか、忘れるどころか待っているのだ。併し未だ茶谷がここに居るじゃないか。」
 (筆)「爾(そう)とも。茶谷がここに居るうちに先に行き待って居れば茶谷がここを仕舞って来るのさ。」

 (長)「成る程、面白い。直ぐに行こう。併し如何いう所だね。君の知っている所だからまさか泥棒の巣窟でもあるまいが。」
 (筆)「泥棒の巣窟ではないが博打打ちの巣窟さ。茶谷が真に亀子を愛し又充分の身代を持っているなら決して博打など打ちはせぬ。行って見れば様子が分かるよ。」

 (長)「だが僕は金がないぜ。今夜ここへ来る支度の為師匠から一月分の給金を前借したけれど、それ之へ振舞って今は六十フランしかない。」
 (筆)「君が大金を持っていれば決して僕が連れては行かない。君が何時も嚢中の乏しいことを知っているから安心して同道するのだ。」
と語らううちに松子と立夫は更に第二曲を歌い始め様とする。

 (筆)「始まってから起つのは良くないからサア直ぐに行こう。」
と是で二人は立ち上がり、衆人の目に触れないよう密かにここを抜け去って戸外の通りに出たが、この時天気は掻き曇り陰々として暗いので長々は四辺を見回し、師匠が目を潰されたのは丁度この様な晩であった。」
と呟くと、筆斎ハ之を聞き、
 「ウム、三峰老人が目を潰されたと言う家は僕の下宿の直ぐ下で僕が居る室の窓から見えるが。」
と云う。

 長々は耳寄りな話と思い、
 「ではアノ家に住んでいて殺されたお鞠と云う女を君は知って居ただろう。」
 (筆)「満更知らぬことはないが、お鞠はアノ家に住んでいたのでハないぜ。素は借りていたというけれど。」
 (長)「夫(それ)は爾(そう)だろう。お鞠は女俳優から落ちぶれて乞食をしていたというのだから。」

 (筆)「爾サ、乞食をして僕の下宿などへも時々余り物を貰いに来、僕もこの通りの気質だから金のある時は金を遣り色々身の上話などを聞いたこともある。しかし僕が今の所へ下宿したのは丁度5年前で其の頃からアノ家は空いていたよ。その後一晩でもアノ家に明かりの見えたことないからお鞠があそこで殺されたと聞き僕は驚いた。」

 (長)「だが君はお鞠を知っていると言うことを警察署に言い立てたか。」
 (筆)「ナニその様な余計なことをするものか。併しそれを言い立てて何か君の師匠の為にでもなると言うのなら今から言い立てても好いけれど。」
 (長)「ナニ言い立てて為になるというわけではないが、僕も三峯老人の弟子であってみれば、ことの顛末だけは知りたいと思い内々気を付けいるが、君その知って居るだけ聞かせて呉れないか。」

 (筆)「知っていると言っても話せば極々僅かなことさ。唯ね、お鞠という女がいつも自慢そうに自分の色男のことを話し、今は外の女に寝取られているけれど、その男が未だ充分未練を残しているから金さえ出来れば取り返すと言っていただけのことさ。何にね、その男と言うのがお鞠に金さえあれば小遣い取りにお鞠の機嫌を取り、金が無くなれば邪険に振り捨てていたのさ。それをお鞠が自惚れて未練があるなどと言っていたのだ。」

 (長)「だが其の男の名前は。」
 (筆)「名前はどうしても言わなかった。だが相手の女の名はもう口癖に言っていた。」
 (長)「何と」
 (筆)「余り憎い女だから廻(めぐ)り会えば酷い目に合せてやるって、そもね、何だかその女の悪事でも知って居る様子であった。私が警察へ出て口を開けばその女は何時でも懲役に遣られますと言った事を二、三度も聞いた。」

 (長)「ではその女がお鞠を生かして置くのは危険だからそれでアノ通り絞め殺したのじゃないか。」
 (筆)「僕も爾(そう)じゃないかと思うけれど証拠の無いことだから誰にも言わないが。」
 (長)「それで女の名前と言う」
 (筆)「何でも本当の名前は外にあるだろうが『まあ坊』と言っていたよ。」

 長々は飛び上がり、
 「何だと、『まあ坊』、若しや横創の『まあ坊』とは言わなかったか。」
 (筆)「爾は言はない。唯『まあ坊』と言っていた。」
 (長)「じゃその『まあ坊』が殺したに違いない。」

 (筆)「と言ううちソレ約束の場所へ着いた。」
と筆斎は一方にある非常に立派な家を指差し、
 「ね、長々君、僕の聞いたのは唯是だけのことだけれど若し君が警察へ言い立てて呉れと言えば言い立てても好いよ。その外何でも手助けになる事があるなら手伝おう。併しもう話をする暇も無いから話は後にして、サア入ろう。」
と自ら先に立って長々の手を引いた儘(まま)博徒(ばくちうち)の巣窟に入ろうとする。

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