巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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nyoyasha38

如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 5.14

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如夜叉              涙香小史 訳

                  第三十八回

 嗚呼長々生ハ唯鼻竹が屋根へ逃げた事を示し、巡査に春野耕次郎の部屋を捜索させまいとの一心から自ら屋根に出て行って、却って鼻竹に突き倒されて、今ハ我が命さえ取り留めるための方法がないことになろうとしている。彼の寿命ハ実に瓦の一枚一枚に縮んで行きつつあることになった。彼の身ハ声もなく力もなく下へ下へと滑り行くだけ。

 世にこれほど情けない例があるだろうか。寿命が益々縮むにつれ彼の脳髄ハ愈々(いよいよ)忙しく動き始め、僅か一分間に足りない間にこうしたら助かるだろうかああしたら免れるだろうかと心百端に馳せ迷ふ中に、唯一つ頼みとするのは屋根の尽きる所に必ず筒樋(とひ)があるに違いない。之に足を踏み留めれば我が身を支ふるに難かしはないと足の先を瓦に着くると此の時確かに足に掛る物は有ったがアハヤと思う暇もなく足ハ早や屋根の外に突き出てしまった。

 今こそハ必死の場合、足ハ外れても手は外さないと肘を張って杖に突き、之に満身の重さを加えると辛くも九死の中に一生を得ることが出来たが、両の手ハ其の筒樋の溝に落ち入ったために、之で体を食い止める事ができたのだ。
 そもそも此の筒樋と云うのは屋根の外に付けた物ではなく、屋根の端を彫りくぼめて溝を作り、雨水が下におちるのを防いでいるものだから、屋根が崩れない中ハ筒樋だけ外れる恐れはない。

 しかし唯恐るべきハ長々の腕の力。能(よ)くその体を釣り上げて何時まで堪(こら)える事が出来るだろうか。一旦取り留めハ取り留めたけれど、体は既に屋根の外にブラ下がり、唯腕の力一つで其の重さを支えるものだから、腕の力が尽きると共に今度こそは、何の支えるものもなく落ちて行くことだろう。何とかして腕の疲れないうちに這い上がる外ハない。

 長々ハ僅かに我が身が留まった事に力を得、
 「この様な時に自分で周章(あわて)ては助かる者も助からないから。」
と言い、篤と心を落ち着けると、我さへこの様な目に逢ったことだから栗川巡査も突き落とされたのに相違ない。栗川が既に落ち去ったならば其の後で鼻竹ハ更に又我を片付けに来ることは確実だ。夫までに身を屋根の上に引き上げなければ奈落の底の人となるだろう。

 好し好し先ず片足を上げ行って溝に掛けれバ後ハ非常に容易(たやす)い事だ。体操をして覚えがあると我と我が心を励まし、先ず両肘の力で肩と首とを前の方に突き出し、そろそろと右の足から上げ行くと、此の時何者かがもっと重い力を以って我が肩を踏み付ける心地がし、引き続いて筋骨に非常な痛みを覚え総身強張(こわばる)って動くのさへ自由にならない。是は俗に言うコムラの返ったもので何人も踏み付けたのではなかった。

 唯我が力の余る為俄かに筋が痙(つ)ったものだ。今までにも水を泳いだ時などにコムラの返った事は一、二度あった。其の時は唯藻がかずに、静かに其の自ずから直るのを待つ以外にないので、長々は又気を緩め筋の自然に伸び来るのを待とうとしたが、其の待ち遠しさは実に一刻が一年より長く思われ、何時まで待って直るやらその当てもなかった。

 二年三年も待ったかと思う頃から我が身体は宛(あたか)も釣鐘の様に重くなり、手も肩も千切れるかと疑われる。誰か来て助ける者はないかと思っていると遥か下の方で、
 「アレ、彼の屋根に人が下がって居る。」
と口々に囃す声が聞こえて来た。

 是も心の所為(せい)に違いない。ここに至っては心さえも掻き乱れ、見ても見えず、聞いても聞こえずやがては屋根までも我を振り落とそうとする様に、右左に揺れ動いているのではないかと怪しまれる。最早支えるにも支へ難し。さしもの勇気ある長々もここに至って勇気が尽き、

 このようにブラ下がって苦しむよりは手を離して死ぬ方が幾倍安楽か知れない。死して一刻も此の恐ろしい苦痛を短くしようと既に最後の決心を起こし、是が此の世の見納めと両の目を張り開くと、此の時唯一つ眼に留まったのは我が鼻先になる瓦の上に落ち留まっている一輪の薔薇の花だった。

 先刻鶴子が手ずから作って我に与え、我自らボタンの穴に挿したものだった。是を見ると等しく鶴子の姿も目の前に浮かんで来て、我を差し招く心地にさせられる。アア自分はまだ死ぬべきではない。例え死ぬまでも鶴子が我に贈った此の薔薇の花を抱き死のう。是はせめてもの慰めだと再び必死の力を出すと、漸(ようや)くコムラ返りの痛みも直り、軽く片足を樋の溝に掛ける事が出来た。

 天の助けか我が身の運か、有り難しと思うと共に心も張り、体操で覚えた秘術を尽くすと不思議にも両足とも樋溝に掛り元の屋根に攀(よ)じ上り果たせた。彼ホッと息をつき、
 「アア此の花で助かった。」
と言い薔薇の花を拾い上げて再び我が胸に差し、今度は筋違いに這う様にしてそろそろと瓦を踏みしめ、漸(ようや)く又絶頂にある煙突の許に至ったが、ここは宛(あたか)も煙突の鍔(つば)とも云うべく周囲に平らなる縁側《ベランダ》があり、鼻竹が隠れていたのも即ち此の縁側なので、長々は是に身を置き、我が胸を撫で乍らも空しく四辺を見回すと、長々がぶら下がったのとは反対の側の樋溝に巡査の帽子が掛かっているのを見た。

 さては栗川は鼻竹に投げ落とされたのに違いない。残念な事になってしまったと我知らず嘆息すれば此の時又一方の端に当たり、
 「助けて呉れ」
と言う声があった。驚いて見ると是こそ彼の鼻竹にして、彼も一分間前の我と同じく軒の端にブラ下がっていた。察するに栗川と組合った結果にして栗川ハ下に落ち、彼はまだ落ち切らないでいたのだ。

 長々はかっと怒り、
 「己れ、巡査を投げ落としたな。」
と云う。鼻竹は必死の声で、
 「投げ落としはしない。加勢を呼びに行ったのだ。助けて呉れ。助けて呉れ。」
 (長)「手前の様な奴は殺しても足りない奴だ。俺も自分で這い上がったから手前も自分で這い上がれ。」

 (鼻)這い上がるにももう力が尽きてしまった。この上は腕が続かない。助けて呉れ。手前も俺を見殺しにする程の怨みはないだろう。
 (長)あるかないか考えてみろ。
 (鼻)「爾(そ)う云わずに足を出し俺に捕まらせて引き上げて呉れ。此方の屋根は長々が滑った方より最と狭くて成る程長々が足を伸ばせば鼻竹の手に届くほどだ。しかし長々は素より彼を助けるべき謂れはないので、

 「其のままで栗川巡査が加勢を連れて来るまで待っていろ。」
 (鼻)「そう邪険な事を言わずにコレ早く足に捕まらせて呉れ。助かりさえすれば『まあ坊』の本名も今住んで居る所も知らせてやる。今俺を殺しては世間に『まあ坊』の本性を知った者が一人も無くなるから後で詮索しても分からないぞ。俺は『まあ坊』の情夫の名前も知って居る。」
と必死になって説き来る。

 この言葉は初めて長々の心を動かした。
 「何だと、『まあ坊』の情夫の名を知っている。では其の頭文字だけ云ってみろ。」
 (鼻)「イヤ助けて呉れなければ云われない。サア早く早く。」
と急きたてるのみなれば長々も其の気になり、身は煙突の縁に掴まり匍匐して其の足を差し出だすと、

 鼻竹は、
 「有り難い。」
と言い其の足を捕えるより早く
 「サア手前も一緒に死ぬぞ。」
と言い足の抜けるほど強く引く。アア彼は到底自分が助からないのを見、言葉を設けて長々の足を取り、不意に乗じて我が身と共に引き落とそうとしているのだ。

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