巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

nyoyasha53

如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 5.29

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如夜叉              涙香小史 訳

                 第五十三回

 医師淡堂先生は更に亀子に向かって様々な指図を与えたが、兎に角完治の見込みが立ったと聞いたからには老人の喜びは並大抵ではなく、
 「サア、長々も永々の看病にさぞや疲れたことであろう。今日は外へ出て一日保養をして来るが好い。亀子の傍には俺と柳田夫人がが付いているから心配ない。」
と言えば、亀子も長々の恩を感じたように、

 「本当に長々さんにはご厄介になりました。もう阿父さんの仰(おっしゃ)る通り私に心配は有りませんから安心して散歩でもしてお出でなさい。」
と勧める。長々は少し思うことがあるので、その言葉を幸いに、
 「ハイ、今日は晩までお暇を戴きましょう。」
と言い、医師淡堂と打ち連れてここを出て行ったが、彼の心には三峯老人が深く淡堂を敬っているのを幸いに、淡堂を我が味方として茶谷と亀子の結婚を破ろうと思っているのだ。

 淡堂は外に出ると共にほっと息を吐き、
 「アア亀子嬢の全快の見込みが付いて、この様な嬉しい事はない。」
と言う。
 (長)嬉しいはずだ、君は実に大医でも及ばないほどの手際を現したもの。これから追々名があがるぜ。

 (淡)ナニ亀子嬢が治ったのは少しも僕の手際ではない。ただ天然自然というものだ。何(ど)の医者でも僕と同じ事をして同じ功奏するに決まっているから、それが嬉しいと言うのではないが、唯もし嬢が死ぬことにでもなれば、その死亡届けから、胸の傷が怪しまれ終に僕が医師規則に背き、犯罪の疑いがある者を届けずに居たとい言う罪に問われるから、それを心配しているのさ。

 (長)成る程それは素人の知らない苦労だがね、君は既に亀子の体の傷を癒したことだし、次には心の傷を治療して貰いたいが。
 (淡)心の傷、何を言うのだ。嬢の心臓には傷はないが。
 (長)そうではないよ。亀子が今も第一に茶谷伯の事を聞いただろう。亀子及び老人共に茶谷と言う奴に心酔し婿にする積りで居て、僕が何を言っても取り上げないのだ。ところでもし君の口から言ってもらえば少しは考えるだろうと思って。

 (淡)イヤそれはご免蒙ろう。人の結婚などに口を入れるのは大嫌いだから。
 (長)当たり前の結婚ならば僕が何も横合いから、かれこれ言わないが、ただ亀子及び師匠の身に取り容易ならない災難が目に見えているからさ。
 (淡)ナンのかのとこの結婚破って置いて君が自分で婿になる積りではないかね。ハハハハハ。

 (長)これは怪しからん。僕をその様な悪人と思うかね。
 (淡)そうは思はないが恋は思案の外だから。
 (長)冗談じゃないよ。僕は亀子の友達で春野鶴子という女に望みを託しているから、亀子の婿になろうなどと言う心は毛ほども無いが、何分にも茶谷伯と言う男が捨て置き難い悪人で。
 (淡)「待ちたまえよ。茶谷伯と言えば何だか聞き覚えのある名だが。」
と淡堂は頻りに首を傾ける。

 (長)貴族名鑑にも出ている姓だから聞き覚えはあるだろうよ。その様な事は如何でも好い。先ず聞きたまえ。その茶谷と言う奴はただ悪人と言うだけでなく、アルク街で三峯老人の目を焼き潰した『松あ坊』と言う女の情夫だ。それを知らずに老人が。
 (淡)何だと、アルク街、これは不思議だ。あの村越お鞠の殺された事件じゃないか。
 (長)それさ、それさ、僕の考えではアノお鞠と言う女を絞め殺したのも多分茶谷とその『松あ坊』だろうと思うのだ。併し君が村越お鞠の名前まで覚えて居るのは不思議だねえ。

 淡堂は返事せず首を右左に傾けて空しく何事をか考える体であるがやがて、
 「分った」
と言って手を打ち、
 「アア人間の記憶力という者は不思議なものだ。僕は先程亀子嬢が茶谷と言ったのを聞いた時から何でも聞き覚えがあると思い、様々に考えても思い出さない所を、君がアルツ街と言ったので初めて思い出した。」
と異様なことを言うのに長々は怪しみ、かつはその思いだしたことと言うのがもしや我が為に手掛かりとなる事柄ではないかと思い、

 「その思い出した事と言うのはどの様なことを。」
 (淡)イヤ待ちたまえよ。君の言う茶谷の名前は何と言う。
 (長)立夫と言うのサ。
 (淡)そうそう立夫、立夫、待ちたまえ。
 (長)又待ちたまえか、大層待たせるじゃないか。
 (淡)イヤ待ちたまえ待ちたまえと言うのは僕の口癖だから、待ちたまえよ、僕にその茶谷立夫の人相を当てさせて見給え。第一背が高くてむしろ痩せた方で。

 (長)それから
 (淡)待ちたまえよ、色が白くていっぱしの美男子だろう。
 (長)全くその通りだが、君何処でその茶谷に会った。
 (淡)待ちたまえ、待ちたまえ、これには色々の話がある、と言って往来では話も出来ない。どこか休息所へ立ち寄ってはどうだ。
 (長)結構さ、直ぐそこにあるから、サア寄ろう。
と言って二人はとあるコーヒー店に入って行ってその一方に腰を下したが、長々は早くその話を聞きたいので頻りに淡堂を促すと、先生待ちたまえと言って一杯のビールを飲み干し、

 「何珍しい話でもなんでもないが、その代わり僕の言う事には嘘も偽りもないだけが取り得だ。」
 (長)その積りで謹聴する。
 (淡)僕が学校を卒業した当座のことだから、今から六、七年前だが、毎夜僕が晩餐を食べに行く安料理屋へ同じく食べに来る女があった。

 (長)それが村越お鞠だろう。
 (淡)そう先潜(もぐ)りをせずに待ちたまえ。ところがその女が古い汚れた着物を着ているけれど通例の貧乏人とは違い、汚れていても絹服だから、僕は不思議に思い気を付けている内にツイ親しくなり、或る夜僕の振舞った酒の酔いに色々の事を話た。

 (長)その中に茶谷の事があるのか。
 (淡)待ちたまえと言うのに、君は後々彫刻の上手になるのだろうが、決して話の聞き手の上手にはならない男だよ。
 (長)君も聞かせ上手になりそうもない。それから。

 (淡)「それから身の上話を始め、数年前まで役者であって可なり盛んに遣っていたが、その中に男が出来て、とうとう芝居に出ることが出来なくなったと言って、惚気(のろけ)交じりの話を聞くと、何でもその男が貴族で非常な美男子でその上に世間の信用が厚いとか色々の効能を並べたが、その時何でも立夫、立夫と言う事を言ったようであった。しかし僕は唯うかうかと聞いていたが、その後何日か経って僕が又例の通りその安料理屋で晩餐を食べていると、そのお鞠が狂気の如くに遣って来て、一直線に僕のテーブルを目指して馳せ寄った。」
と宛もその時の事をそのまま思い出した様に興に乗って話しだした。
 長々も今は全く手掛かりになる事柄と見て取って耳を傾け始めた。

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