巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

nyoyasha60

如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 6.6

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如夜叉              涙香小史 訳

                  第六十回

 紳士は誰だろう。品物は何だろう。紳士が投げた品物は窓を潜(くぐ)り亀子の足元に落ち、紳士は恭しく目礼をして一足下がり、往来のベンチに腰を降ろして亀子の返事を待って居るようだ。亀子はひたすらに驚き足元の品物を見詰めると、巻いた紙のその表に、

 「亀子様へ」の五文字があった。密かに我が身に渡すための手紙だとはただこれだけで分った。何者の悪戯だろうと亀子は怒りを催したが、文字にはどうやら見覚えがある。若しや茶谷立夫の手紙ではないかと思い、ついては今まで彼に会っていない恋しさが一時に募り、さては彼が人目を忍んでこの手紙を送るからは、この家に表立って来ることが出来ない身となっているのに違いない。

 誰の仕業か知らないが、此の頃父の様子までも何処と無く変わったところがあり、一同ともに我が前でなるべく茶谷の事を言わないようにしている様子が見られるばかりか、偶々私が彼の事を問うと曖昧に返事するなど怪しいことも数々あり、理由が無くてはならないと亀子は急に湧き出した疑問を制しかねて、震える手先で彼の品を取り上げて見ると、果たせるかな茶谷の手紙で、窓から投げ込む為にといって果物に巻き付けたものだった。ほどくのももどかしく読み下すその文面に、

 「嬢よ、私は何をして御身の心を損じたのでしょう。御身の父は何故に私の出入りを留めたのでしょう。」
 さては我が父は我が身に知らさず彼の出入りを留めたと見える。 「私は出入りを留められてから昼は心に御身の事を思い続け、夜は人知れず御身の家の前に行きつ戻りつ徘徊して、こうすれば御身の声を漏れ聞けるか、こうすれば私の思いが万が一にも御身の心に通じることが出来るかもしれないと、そればかりを頼みとしたが、私の心は御身に通じないのか、御身が既に私の愛を忘れたのか、嬢よ、私はただ御身の一言の返事を待つものです。

 私は御身の一言を聞くまでは生きることもできず、死ぬこともできない。嬢よ、御身の知人の中に私を憎む者がいます。妬む者がいます。これらの人々が私を悪し様に言いなして終に御身の父までも味方とし私を振り捨てるに到りましたが、まさか御身までがその人々の言葉を信じて私を見殺しにするとは思われません。それとも御身は私の一言の言い開きも聞かずに早や私の敵に欺かれて仕舞ったのですか。

 嬢よ、この手紙を持参する一紳士は好く我が身の上を知っており、私の失望と悲しみを見るに見かね、どの様な事をしてでもこの手紙を御身に届けて来ようと引き受けてくれた人です。御身、もしまだ悪人達に欺かれていず、私を憐れむ者と思うならただ三分間唯二分間でも好い、この人に面会を許し私の言い伝えを聞き取って欲しい。

 私はただ一目御身に会うまでは惜しくは無い命を繋(つなぎ)留めて待つ者です。御身がもし既に悪人達の言葉を信じ私を思い切ったというならば、直ぐにこの持参人を追い返せ。私は我が身の生涯ここに絶えたる者と諦め、恨みもせず嘆きもせず否恨み嘆く猶予も無くこの世を去ろう。御身がこの人に会う会わぬはただ私の命の瀬戸際です。嬢よ、あえて私の命を繋留めるか。そうでなければこの人を追い返して私を殺せ。

 私は御身の一言の返事によって殺されるのを厭いはしない。返事を得ないで生きもせず死にもしないで苦しむことは最早や私には耐えられません。私が亡き後は永くこの手紙が御身の手に残って私の形身となる事でしょう。嬢よ。さらば。」
と結んであった。

 亀子が若し茶谷がこの手紙を送った心の底を悟る事が出来たなら二の足を踏んで考える所だが亀子は唯茶谷に従がう一心で彼の心の深さを知らず。自分が若しこの人に会わなかったら立夫は必ず絶望して自殺するに違いない。人一人を見殺しにして済むべきだろうか。ましてや我がために夫とも定めた人が、我が父の為、悪人のためこの様な疑いに苦しんでいるのに、この手紙を読みながら知らない顔で過ごせるだろうか。

 亀子はあたかも狂気の様に部屋の中を駆け回ったが、今は会って見る以外に思案は無い。父にこの手紙を読み聞かそうか。父はたった今部屋で、前から茶谷を好く思っていない長々と何事かを相談している。伯母である柳田夫人も茶谷を好まない方なので、私を引き留めるのは確実である。誰にも知らさずこの持参人に会う外は無い。

 しかしながら我が体は未だ充分に治っては居ない。外へなどとは医師の許しも受けていないのにと、あれこれ心を悩まし、再びチラリと窓の外を眺めると彼の紳士は死刑の宣告を待つ罪人の様に非常に心配そうに我が身が出て来るのを待つばかり。更にその容貌を見ると充分誠意がある様に見え、年も四十に余るようで、この様な人が来るからには兎に角容易なことでは無いはずだ。せめては細工場まで降りて行こうと、先ごろ恐ろしい目に逢った彼の裏階段を降りて来た。人影も無い細工場の中に入れば父の部屋で長々生の声として、

 「イエ、老人、貴方はその様に仰いますが伯爵の肩書きが何の当てになりましょう。伯爵は伯爵でも実にこの上もない悪人です。」
としきりに父に説く言葉が手に取るように聞こえる。今は疑うところもなし。私を憎む人が父を説くとは正にこの事を言ったのだ。

 亀子はこう思って、急にかっと怒りを催し、夫の大事の身の大事、このままでは済まされないと、今は何もかも打ち忘れ自分の身が未だ充分でないのにも気が付かず、敷居の外は総て敵なりとの事も思わずそのまま戸外(おもて)に忍び出したのはまた仕方が無い事と言うべきか。

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