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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

nyoyasha7

如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 4.13

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如夜叉    涙香小子訳

                       第七回 

 二人の夫人が訪ねて来たとは誰だろう。亀子が疑問に思っているうちに老人は声を発し、
 「アア人の尋ねて下さるほど有難いことは無い。何方(どなた)か知らぬが是へ通せ。」
と命じた。女中は心得て退いたが引き違えて入って来た両夫人の一人を亀子は見るより、

 「オヤ、捨苗夫人ですよ。」
と父に告ぐ。父は目の見えぬ顔を上げ、
 「オオ夫人か、よく尋ねて下さった。サアこの椅子へ。」
 (亀子)「アレ未だ茲(ここ)までは来ませんよ。」
と言ううちに近づいて来た夫人は先ず亀子に向かい父の不幸を慰め、
 「実はね、早速お見舞いに上がらねばならない所を、多分お取込みであろうと存じ今日まで控えていました。」
と言う。

 老人は目の見えるうちならば左程この夫人に訪ねられるのを有難いと思はないが、今は心細さの一方に人懐かしい身の上なので喜ぶこと並大抵でなく、
 「イイエ、夫人、取り込み中でも構わないから、この後は親類同様に尋ねてください。実の所私は今まで音楽と牛の鳴き声が大嫌いで、貴方のお宅には常に音楽の会が有ると聞き、恐ろしくてよう上がりませんでしたが、こうなればもう耳に聞くものの他に楽しみが有りませんから、ヘイ、これからは、お宅へも亀子に手を引かれて参り、牛の鳴くような音楽の泣き声を聴き慣れようと思います。アレも聞きなれれば次第に面白くなりましょう。ねえ、捨苗夫人。」
と言う。夫人はこの無作法なる言葉に思わずも笑いを催し、

 「ハイ、面白くなりますとも。それにね」
と言いつつ、連れの女を顧み、
 「今日私が一緒に参りましたこの婦人は、この頃露西亜から帰って来た有名な歌姫で、次の水曜日には私の宅で歌うてくれる約束です。何しろパリへ帰ってから初めて歌うのですから、パリ中の紳士貴婦人が大待兼ねです。貴方も亀子さんと御一緒に是非どうか。」

 (亀子)「ハイ、きっと父を連れて上がります。」
 (捨苗)「この歌姫(うたひめ)の名は軽根夫人松子と申しますよ。」
と言ってここに引き合わせの役目を済ませた。今引き合わされる松子夫人は少し決まり悪げに、
 「イエネ、今日突然に上がる積りではありませんでしたが、捨苗夫人の宅に参ると夫人が丁度出掛けだから是非一緒に来いと言いまして。」
 (三峯)「イヤ、その様な言い訳には及びません。来て下さったのは何より有難いのですから。以後どうかお心易く」
と老人は丁寧に頭を下げた。捨苗夫人は更に歌姫の効能を述べんとする様に、

 「昨年露国から来る新聞をご覧の方は皆ご存知ですが、軽根松子夫人と云へばそれはそれは大変な評判、彼(か)の国の貴夫人紳士は丸で気が狂うほどでした。それで松子ももう充分の財産を作り、生涯を気楽に暮す積りで全く足を洗ったのですから、誰に頼まれても決して歌わず、唯気の向いた時親しい人だけに聞かせると申します。

 (三峯)「成る程もう稼業を廃(よ)し貴夫人の仲間入りをなさったのですな、それは一層聞き物でしょう。」
 (捨苗)「その代わり何ですよ、松子夫人の声は牛の鳴くようではありません。丁度鶯のようですからご安心なさい」   
 (三峯)「ヘヘエ鶯のようだ、それでは定めし見目形も美しいことでしょうな。アそう聞くと益々目を潰した奴が恨めしい」
と思わず愚痴の語を吐くのは絶え間なく心に燃える復讐の一念、事に触れてはその度を強くするためかと知られる。

 捨苗夫人が、
 「ハイ美しうございますとも」
と答へんとして未だ答へぬうち遥か天井の隅に声あり。
 「実に美しい。これが日頃から貴方の探す本当の美人です。」
と叫ぶ者あり。この異様なる言葉に驚き捨苗夫人も軽根松子夫人もほとんど身震いせぬばかり。一同と共に声の来た方を眺めると義勇兵の頭に留まって松子夫人の姿に見惚れた長々生長田長次が思わず発する感嘆の言葉だった。

 だが貴方の探す美人とは如何なる意味だろう。両夫人はまだ理解が出来ないようだ。老人それを察してか、
 「お両人(ふたかた)アレにいるのは私同様至って不束(ふつつか)な弟子ですが、ただ感心には心に思うだけ事を皆打ち明ける気質で、それに又長らく彫刻に苦しんでいるお陰で眼力が至って鋭く、美人ハ美人悪人は悪人と一目で見破ります。」
と説明(ときあか)したがまだ理解が出来ないのか二人とも返事がなかった。

 老人は又語を継ぎ、
 「イエサ、世間では私のことを荒物師と言いまして義勇兵のような荒々しい物の外は彫刻が出来ないなどと噂します。ナニ私の腕で美人の彫れぬ事は有りませんが、唯雛形になる本当の美人が無いので四、五年前から誰か本当の美人は無いかと私が探していたのです。」
と是だけ聞いて漸(ようや)く安心したと見え、捨苗夫人は嬉しそうに、

 「イエ松子は本当に類のない美人ですよ。」
と言い松子夫人はやや恥ずかしそうに、
 「アノ通り飾りもなく大きな声で叫んで下さるのは旨(うま)く言い回すお世辞よりどれ程有難いか分かりません。」
と言い両夫人とも初めて椅子に腰を卸(おろ)せり。老人は真の美人の見本を得たことの嬉しさに我が目の見えぬことさへ忘れた様に、

 「アア嬉しい。女はあっても美人という者ハ居ないもので、今まで随分探しましたが時さえ来れば独りでにその美人が訪ねて来てくださる。目は見えませんがな長々生の言葉だけに松子夫人の容貌は大抵心に浮かびます。目許が涼しくて鼻筋が通り、アア有難い有難い、貴方がもしお暇の度にこの細工場へ来て一時間なり二時間なり座っていて下さらば土で立派な美人の形を取ります。」

 今まで無言で控えていたる亀子は初めて言葉を発し、
 「阿父(おとっ)さんもう彫刻事は仰有(おっしゃ)るな、益々目の見えぬ不自由を思い出す様なものですから」
 (三峯)「イヤイヤ不自由は忘れる暇は無いから何の話をしても同じ事だ。」
 (亀子)「だって貴方、松子夫人が毎日来て下さっても貴方はもう彫刻を止して隠居をなさったから、美人の雛形など取るには及びません。」
 (三峯)「そうではない。そうではない。松子夫人さえ承知して下されば。」

と言い掛けて見えぬ目を松子夫人の居る方と思う辺に向きかえて引き開けんとすると、松子夫人も他人ながら幾分の哀れみを催したと見え、
 「私は暇な身ですから幾度でも参りますが。」
 (三峯)「イヤそれは何より有難い。実はですね、目こそ見えないが、手が満足に残っているから私は手探りで雛形を作って見ようと思います。貴方の顔を探らせてもらえば鼻の高さや額の格好も分かりましょうと思いますから、幾度も探りに探って」

とまだ半分も言わないうち松子夫人は我が顔を探らるる気味悪さにゾッとした如く、
 「それではとても充分には出来ないでしょう。私は又お弟子に顔を取らせるのかと思いました。」

 亀子も夫人が気の毒なので、
 「阿父(おとっ)さんそのような事を言うのはお止しなさい。」
 (三峯)「イヤイヤ手探りでも出来ぬとは限りません。目の見える時でも急ぎの仕事をしている時、日が暮れると女中が灯りを付けてくるまで手探りでやったこともあります。もっとも早くは出来ませんが是が私の名を残す最後の大仕事ですから、五年が十年掛かろうと仕上げます。

 ギユコルテーという画工は手が無いのに画を描いて手無しギユコという落款をしたと言いますから、私も盲人三峯作ると刻み込んで置きます。」
と熱心に説き立てるのは老人が物に屈せぬ日頃の気象をを知るに足りる。尚もこれより老人はどうかして松子夫人にこの事を承知させようと思う様に柄にも無き様々の世辞を使ったが傍にある捨苗夫人は亀子と同じく松子夫人の迷惑を察し、話の種を変えようとするように、

 「こう申すと余り世の中の事に疎い様子ですが、実はね、今度の御災難は新聞にも出ませんから、私は唯あの茶谷立夫さんから承ってびっくりしたことでしたが、アノ後どのような事になりましたでしょう。」
 老人は我が愛する彫刻師の話より我が憎む曲者の話に移ればその顔にまで自然に恨めしい色を浮かべてきた。
 「どうなったか知りませんが、どうしても曲者は捕える積りです。」

 松子夫人も驚きたる様子で、
 「オヤその曲者が未だ捕まりませんか。ここへ来る道々も馬車の中で捨苗夫人から恐ろしい硫酸の話を聞きましたが、その様な悪人が未だ捕はれないとは警察も余り不手際というものでは有りませんか。」

 (三峯)「実に不手際と見えます。私を送って来た親切な栗川巡査が、直ぐに警察の模様を知らせに来てやると約束しましたのに、今もって来ぬほどですから。」
と言う時、又も巨像の上なる長々生は、
 「ソレ栗川巡査が来ました。」
と叫ぶ。

 彼、高い所から窓越しに巡査の姿を認めたために違いない。この言葉を聞き一同はこれより警察の捜査結果を聞くことにしようと早や聞き耳を立てようとする。巡査が来たら何(ど)のような事が起こるだろう。又捨苗軽根両夫人がこの話に何のような関係の人となるのか、それらは回を追って記して行く所を見て知って欲しい。

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