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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

nyoyasha70

如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 6.16

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如夜叉              涙香小史 訳

                 第七十回 

 お紋が合図の片手を上げるのを見てさては彼の恐るべき『松あ坊』が戸の影に潜んでいるかと長々は頷きながら春野耕次郎の上着の裾を引くと、春野も小声で、
 「分かったよ、分かったよ。」
と言う。なおも長々はもし耕次郎を前に出し、不意の怪我でもさせてはならないと、自ら先に立って階段を降り尽くすと敷居の外に出ていたかのお紋もこのまま立ち去るべき時ではないと思った様に、再び引き返して店に入る。

 この時『松あ坊』が隠れている横手の大戸は壁を離れてそろそろと動き出したので長々はこうと見て愈々『松あ坊』が我が身と耕次郎を目掛けて出て来ようとしているのを知り、恰(あたか)も勇士が戦場にに臨むがごとく身を引き締めて進んで行く。その間にも長々の心には『松あ坊』がどの様な手段で一同を襲おうとしているかと絶えず疑いを抱いたが神ではない身の悲しさ、彼女が三峯老人の目を焼き潰したのと同じく恐ろしい毒薬を隠し持っているとは知る由もない。

 進み進んで戸の際に身を身を出すと出口に吊るしてあるランプの光は正面に長々の顔を照らす。この顔を認めてか戸の陰から踊りだした一婦人、恨みに煌く眼を張り開き、
 「エエ己(おのれ)が先に来やがったか。」
と言うより早く一足引き、右の手で腰のあたりのポケットを探り一個の瓶を取り出す。

 何しろ公園の踊りに出て身の素早さを以て世間を驚かした『松あ坊』のことなので、その早いこと飛鳥の様で、取り出したその瓶は長々の顔を目掛けて一直線に飛んで行こうとする。危うしと言うのも中々成り。このきわどい一瞬の間にすかさず後ろから『松あ坊』の手を抑えた者がいた。誰かと見るとお紋であった。お紋は『松あ坊』がポケット取り出した品物が毒薬かどうかは知らなかったが兎に角長々を目掛けて投げ付けるものと見たので有無を言わさずその手を捕らえ留たのである。

 捕らえて止めは止めたがこと既に後の祭り、毒薬は早や瓶の口を脱し噴水のごとくほとばしった。しかし、ただ幸いに投げる手の自由が利かないためその狙いは全く過って長々の顔にはかからずに松子夫人その人の美しい顔に掛かった。

 「苦(あ)っ」
と魂消(たまぎ)る一声と共に『松あ坊』は顔に手を当て後ろざまに倒れようとし、お紋の胸に寄せかかる。総てこれらの一波瀾はほとんど一分にも足りない間の事で、長々も耕次郎も何事が起きたのか見定めることは出来なかった。ただ『松あ坊』がお紋の体に倒れ掛かったことだけは認めたので、
 「何をする」
と叱りながら長々は先ず『松あ坊』の胸を取り引き立てるる。

 『松あ坊』は自分の顔が焼け爛れるその痛みに夢中である。
 「邪魔、邪魔」
と打ち叫んで徒に身をもがくばかり。長々はこの様な中にも硫酸の臭が鼻を衝くのに初めて『松あ坊』の恐ろしい毒薬を用いた事を覚り、驚いて飛び退くに『松あ坊』は猶も怒りに耐えられないように、
 「エエ臆病者め、男ならこの毒薬を飲んでみろ。」
と罵(ののし)って身を起こしたが痛みが益々激しい為又も苦悶の声を発す。

 後ろに控えていた耕次郎はまだ何事が起こったのか悟ることができずにこの苦悶の声を聴き捨て難いと思う様に長々を掻き除けて『松あ坊』の前に寄る。『松あ坊』は当の敵を逃してはならないと思う様に又も彼の瓶を取り直したが、たちまち思い直したと見え、
「邪魔をするな。」
と再び叫んで壁にその身を支えながら帳場の前までよろめいて行って、

 「鏡を、鏡を」
と声を発す。アア彼女この恐ろしい間際にも日頃唯一つの資本とする我が顔がどうなったのかを見届けようと思うのだろう。しかし帳場の者はなるべくこの騒ぎに立ち会わないのが好いと思い、誰もが奥の方に逃げて行って鏡を呼ぶ『松あ坊』の声に応じないので、『松あ坊』は猶も土間の奥まで歩み行くと、その突き当りに立ててあるのは一面の姿見である。

 これ幸いと馳せ寄って我が顔を照らして見ると、アナ可恕(うたて)、いままで幾多の有情男子を悩殺した彼女の花のかんばせはただ右の目を残せしのみにて左の目を焼き潰した上額の辺から鼻より、口より見る影もなく赤膚に焼きただれ晴れ上がって妖怪とも化物ともほとんど例えようのないほどである。

 ああ外面の如菩薩に内心の夜叉を隠していた松子夫人、今は外面まで如夜叉である。三峯老人の目を焼き潰した毒薬はついに十倍の痛さをを以て我が顔を焼く。天罰か否自業である。このようにして『松あ坊』は我が姿が変わり果てたのを見て絶望の声を上げ、この時までも付いて来ていた長々の方に振り向いて流れるような早口で、

 「手前はこの瓶が恐ろしいか。臆病者め、手前を初め手前の情婦春野鶴子と亀子の情夫耕次郎まで焼き殺して恨みを晴らす積りで来たが、変わり果てたこの姿で長らえるのは生き恥だから毒薬の無くならないうちに『松あ坊』の立派な最後を見せてやる。その代わりこの恨みは『松あ坊』に代わって茶谷立夫が晴らすからそう思え。アア好い気味だ。茶谷は早やこの恨みを半分は晴らしてしまった。手前の師匠の娘亀子は筆斎が救ったから無傷だろうと思うのは間違い。筆斎の来ない前に『松あ坊』の別荘で十分茶谷にその肌身を汚されたぞ。」
となおも毒語を残そうとする。

 長々は例え我が身が焼かれるもこの様な言葉を耕次郎の耳に入れてはならないのでその口を塞いでくれようと両手を広げて重なり掛かるに、『松あ坊』は根もない毒語で十分長々と耕次郎を絶望させたと思ったかそのまま瓶を口に当て、ただ一息に飲み干して四苦八苦の声と共に仰向けに倒れたのは書くのも忌まわしい最後であった。

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