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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

nyoyasha73

如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 6.19

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如夜叉              涙香小史 訳

                 第七十三回 

 茶谷立夫が早や決闘に決心した様子を見て筆斎は眉を顰(ひそ)め、
 「それは少々違いましょう。
 (茶)何が違います。
 (筆)貴方は今日の会合を唯決闘のためばかりの様に思い、その用意として今朝から撃剣の稽古をしていても、私の方では貴方の相手になるかならないかそれも未だ決めていません。
 (茶)これはけしからん事をおっしゃる。今更恐ろしくなったのですか。昨夜既に分かれる時、固く言葉をつかえた通り、私はもう飽くまで貴方と闘います。それも命の遣り取りばかりでなく貴方が無根の説を作って私の名誉を傷つければ、私も又そのつもりで三峯老人と亀子の名誉を傷付けます。」

 長々は聞くに耐えられず、躍り出て、
 「何とおっしゃる。老人と亀子の名誉を傷つけると。」
 (茶)イヤ貴方が横合いから口を出す場合ではありません。私と筆斎君の談判です。筆斎君が私の名誉を傷付ければ、私も傷つけます。」
 筆斎は冷淡に、
 「そうですね。貴方の身に傷つけられた程の名誉が残っているかいないかは一疑問です。」

 (茶)これは失敬なことを言う。
 (筆)イヤいずれにしても我々と闘うのは貴方の為になりません。貴方は亀子嬢の名誉を傷付ける積りでしょうが、嬢は唯貴方に誘(おび)き出されたと言う少しの落ち度があるだけで、そのほかに更に不名誉の無いことは誰より私が証人です。貴方が何と謗(そし)っても世の人が信じません。
 (茶)私としてもそのとおり身に不名誉はありませんから。

 (筆)その様な口幅ったい事をおっしゃるな。我々は先日既に並べたとおり貴方の犯罪の証拠持ち、貴方を終身懲役にもやることが出来ますから、その様に争うより我々の言う通り、無難に外国へ逃げて行くと決心なさい。
 (茶)オヤオヤそれでは貴方の言うことは、先日の談判を繰り返すだけですね。
 (筆)違います。先日の談判は貴方に勘考の猶予を与えて置きましたが、今日はその猶予が切れたから、直ぐに出奔せよと促すのです。唯口で出奔すると言うだけでは行けないから、第一に出奔すると言う契約書を認めて調印し、次には貴方の犯罪の白状を筆記して我々に渡すので、尤もこの筆記は決して他人に見せるのではなく、万一貴方が約束に背いた時、貴方を責める道具にしまって置くのです。」
と明らかに言い述べると、茶谷は嘲ける様な笑を浮かべ、

 「では詰まり私が泥棒や人殺しやそのほかに種々様々な悪事をしたと書き並べるのですね。又その上に松子夫人に言い付けて三峯老人の目を潰させたということまで書くのですか。」
と愚弄した。長々は又も口を入れ、
 「イヤ『松あ坊』の事は書くには及びません。彼女は昨夜既に毒薬を飲み自分の罪を償いましたから。」
と言うと茶谷は今までも『松あ坊』の死んだ事を知らず如何にせしやと気遣っていたことなので、聞いてぎょっと驚いたが、その顔色を表さず、

 「その様な冗談を言う場合ではありません。」
 (長)「何が冗談です。毒薬を飲んで死んだから死んだと言う
のです。昨夜貴方は彼女の帰るのを待ち明かしそうですが、もう待つには及びません。決して帰らない人ですから。それとも貴方がその死骸を見たいとならば、モルグの陳列所へおいでなさい。『松あ坊』は死んでも十万フラン近くの財産をそのポケットに持っていますから、貴方がこの女は俺の情婦だと言い立てればその金が貴方へ下げ渡してくれるか、但しはその場で貴方が捕縛されてしまいましょう。」

 茶谷は益々驚いて今はその顔色を包み得ず、
 「成程貴女方が殺したのですね。」
 (長)「失礼な事を仰るな。あなたではあるまいし人殺しの罪など犯しはしません。尤も貴方も自分では手を下して人を殺す勇気は無く、村越お鞠の殺害なども鼻竹と『松あ坊』にやらせたほどの臆病者ですが、『松あ坊』は感心に貴方より勇気があります。人など頼まずに自分で春野耕次郎と鶴子の眼を潰す積りで毒薬を持って春野の家へ行ったのです。所がその謀事の図が外れて、過って自分の顔を焼いたため、生き恥を晒すより死ぬほうが増しだと言い、立派に毒薬を飲みましたが、書類も名札も持っていないから直ぐにモルグへ送られました。唯ひと思いに死んだ為貴方のことも口外しなかったのは貴方の為に幸せでしょう。」

 茶谷は聞くに従って長々の言葉の偽りでないことを知り、その失望は一方ならず、今までも我が財布、我が命の糧と頼んでいた『松あ坊』が死んだとあっては何を元手に世を渡るべきか、一層三人の言う様に外国に逃げて行こうかと考える風なのか。否否外国に行っても身を支える見込みがない。例え我が身が殺されるとも、三人と決闘をし、我をこのような所まで追い詰めたその恨みを晴らすのが一番良いと少しの間に思い定めたと見え、三人の顔を見比べて何事かしでかそうとする様子は、追い詰められた毒獣がいずれの人に飛びかかろうかと見回すのと異ならない。筆斎は最早問答も尽きたとと見て、ポケット中から一通の書類を取り出し、

 「サアこうなったら我々の言う通り、この契約書に調印して外国に落ちて行くほかはないでしょう。」
 茶谷は無言のままに受け取り一目見たが、どうかして三人を立腹させ、我が得意とする決闘に導こうとの心なので、そのままずたずたに引き裂いて
 「この様なものはけがらわしい」
と言いながら筆斎の足元に投げつけた。

 (筆)それを破ってどうします。
 (茶)知れたことさ、決闘です。
と言えど、筆斎はその気にならず、
 「いけません。紳士とも言われるものが罪人の相手になると思いますか。よろしい、かくなる上は約束の通り貴方を巡査に引き渡す一方です。もう逃げようとしても逃しません。長々と淡堂に張番をさせ、その間に私が警察官を呼んで来ます。」

 茶谷は図々しくも落ち着き払い、
 「サア呼んでおいでなさい。私も昨夜、貴方方が来る前に亀子を抱いて寝た顛末を警察官に話したいと思いますからと言う。この一言は彼が最後の場合まで蓄えて置いた毒矢なるべし。三人は毒矢に当たって顔色を失う中に、長々はこれまでと思い、
 「この嘘吐きめ、」
と叱りつける。これこそ却って茶谷の思う壺なれば、彼猶も三人を怒らせようとするように、

 「何を失礼なことを言う。」
と言いながら掌で長々の顔を張り飛ばした。平和はこれで全く敗れた。

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