巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

nyoyasha8

如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 4.14

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如夜叉    涙香小子訳

                        第八回

 栗川巡査が来ましたと叫ぶ長々生の言葉に、一同は早や警察の捜査がどのような様子なのかを聞くことかと息を凝らして待つ間、程無く栗川巡査は入り来た。先ず一同に会釈して次に老人に打ち向かい、
 「大いに遅くなりましたが警察の調べも思うように運びませんので」
と言い訳し更に語を継ぎ、
 「しかしアノ殺された女の名前だけは分かりました。」
と言い始めて腰を卸した。

 一同のうち彼の軽根松子夫人はまだ充分に事の顛末を知らないので、
 「殺された女」
と聞き大いに打ち驚く如く、
 「オヤ女が殺されましたか。」
と問う。巡査はこの時初めて松子夫人の顔を見て、その美しさに驚いたのか、それとも見覚えでもあることか、しばしは瞬きもしなかったが、漸く我に返って、

 「ハイ自分で自分の首をくくったのではなく、無理に絞め殺されたのです。医者も探偵も皆そう申しますから。」
 老人も賛成し、
 「医者より探偵より目の見えぬ私が証人です。警察署で初めてベッドの毛布を上げて見た時下から恨めしそうに歯を食い〆た顔が出て喉には荒縄が食い込んでいましたが、自分で首をくくった者とは全く様子が違います。アア今思ってもゾッとする。私は目を潰されて後もその恐ろしい姿が見えるよう思います。したが栗川巡査、アノ女の名が分かりましたとな。」

 (巡査)「ハイ名前も身の上のあらましも」
と言ってこれより栗川巡査の語り出るあらましを搔い摘まめば、殺された女はその名を村越お鞠と言い、当年三十九歳にして十余年前までは女役者を勤め、一時は馬車をも蓄えるほどの勢いだったが、何時頃よりか一人の情夫に痛く心を寄せその情夫のために金銭衣類まで入れ上げて芝居にも出ることが叶わぬ身となってしまったので、バドブアル街へ即ち老人が眼を焼き抜かれし所に細き家を借り住んで居たのだが、その後は情夫にも捨てられて且つはその日の暮らしにも差し支ゆるまでに成り果てたと見え、歌を歌って市中を徘徊し、一銭二銭の金を貰って僅かに露命を繋いでいた。

 去れど又時々は不意の儲けでもあると見え華美(はでやか)なる衣類を着けて以前の借家に返って来た。その金の続く間情夫を呼んで共に暮し、金が尽きれば又その情夫に捨てられて乞食になりかかったことが幾度あったか言えないほどだ。その情夫とは何者なのか、このような女をゆだぶる程だからきっと悪人には相違ないが近辺の人は誰もその素性を知らない。

 顔を見た人の噂では一廉の美男子だったとのことだが、それらのことははっきりとは知ることは出来ない。この様な訳なので、警察の鑑定では、お鞠を殺した者は多分その男から出た事に違いない。そうは言っても彼(か)の家の戸に挟まって残って居た絹服の切れから見ると、犯罪人は貴婦人であることも明白なので、その男が今は貴婦人の情夫となり、その貴婦人と言い合わせて前の女をを殺すに至ったものではないか。

 又彼の夜、老人を欺いて寝台(ベッド)の端を担がせた職人風の男が果たしてその情夫であったのか、それとも金を貰って死骸の取り片付けだけ頼まれたのか、それも明白には知る方法はないが、探偵の見込みでは彼は唯雇はれただけで、鞠を殺したが情夫ではないだろうと言う。唯是だけの事実にして外に何等の手掛かりもないので猶(なお)新しい手掛かりが見つかるまでしばらく見合す外はないと言って、警察ても今はそのままにして置いてある。」

と栗川巡査は是までの事実を述べ、猶(なお)当夜ドブアル街の家を捜索した結果などを一同の問うに任せ、一々語り聞かせたので、一同は様々な推量をした。その中に一人三峯老人は目の見えぬ顔を垂れ無言のままに一同の推量を聞くだけだったが最後に至り顔を上げ、

 「それでは私の目を焼抜いたのは、あの髭の長い職人風の男では無く貴婦人ですか。」
 (巡査)「どうもそうとしか思われません。」
 老人は両の手を広げ捨苗夫人と松子夫人を探りながら、
 「これ両夫人貴方がたは随分貴婦人社会に交際も広かろうから、もしも怪しいと思う婦人があれバどうか内々で私に知らせ、目の見えぬ老人にこの敵を討たせてください。その貴夫人の喉笛へでも食いついて遣らなければこの老人は死んでも魂が休まりません。」

と非常に悔しそうに言うのを聞いては、いずれも気の毒の思いに耐えず、老人の顔を見上げることが出来なかった。 
 ややあって捨苗夫人は、
 「警察でも分からぬものが私共に分かろうはずも有りませんが、この敵を討ちたいのは貴方の友達皆同じ思いですから手掛かりと思うことさえあれば、お頼みが無くとも知らせますとも、ねえ松子さん」
と軽根夫人を顧みれば、夫人は初めて顔を上げ、
 「そうですとも貴方の不幸は初対面の私でも涙が出るほどですもの、ですが曲者は何の目的で乞食同様の女を殺したのでしょう。」

 栗川巡査は之に応じ、
 「そうですね、それも確かには分かりませんが、お鞠というのがその男から寄越した書付でも持って居たのでしょう。その男が若し紳士ならばお鞠の様な者に自分が金を貰ったり受け取りとか無心手紙の様なものを持っていれば何時それがお鞠の口から世間へ洩れるかも知れませんから、随分お鞠を殺しても取り戻す気になりましょう。それに又一つ不審なことはお鞠がメンテン街の江島屋という質屋へ久しい後に置いた質物が有るそうで、お鞠は毎年その品の流れる時が来ればどのような苦しい想いをしても利揚げをして居たと言う事です。その品がことに寄れば情夫の名前にでも係る様な品物かも知れません。」

と説き終わる。その言葉の漸(ようや)く尽くる時しも入り来る下女お花、
 「唯今伯爵茶谷立夫さんがお出でになりました」
と通ず。茶谷立夫とは即ち亀子の恋人であるので、この名を聞いて一同は急いで様子を改めた。亀子は恥ずかしそうに顔を赤らめ老人は襟を正し捨苗夫人は嬉しそうに戸の方を眺め、松子夫人は初対面の紳士に賤(いや)しまれないようにしようと思う如く行儀を繕い栗川巡査は我が用事が済んだと見て巨像の下に引き退りぞいた。

 このような所へ入来る亀子の恋婿を如何なる人かと見れば彼れ実に品格備わる美男子だった。背高からず低からず殊に姿勢(すがた)の釣り合いの良いこと是も彫刻師の見本とするのに堪えたり。亀子の想い初めるたのも無理はない。伯爵は先づ亀子と目と目を見合わせて慇懃に黙礼し直ちに老人の傍に行き両の手を握り合うなど其の駆け引きに寸部の抜け目なし。

 次に捨苗夫人に打ち向かへば夫人は非常に打ち解けて、
 「本当に好い所へいらっした。兼ねて待ち兼ねて居た音楽師軽根松子が到頭帰って来ましたよと松子夫人を引き合わすと二人とも初対面作法に負(そむ)かず言葉少なに恭しく挨拶をした。是より捨苗夫人が音頭に立ち一同余念も無く雑談に移ろうとする所である。

 夫(それ)に引き換へ又此方(こなた)の義勇兵の巨像の陰にも人知れず蜜々(ひそひそ)と打ち語らふ両個(ふたり)の人がある。一人は今この席を退いた栗川巡査、一人は今日の仕事を為し終わって巨像の頭より降りて来た長々生である。長々生は彫刻の技に熱心であるのみならず撃剣の技にも熱心で、稽古にも熱心にして外に是という道楽もなく師の家より下宿に帰れば直ちに飲食店に行き、その後は撃剣の道場に夜を更(ふ)かす程なので、早くより栗川巡査とは撃剣の友達であると言う。

 栗川は小声で、
 「実に能(よ)く似ている。他人の空似とはいうものの、目から鼻から「まァ坊」にそっくりだ。唯顔に傷がない丈(だけ)だ。長々は怪しんで、
 「まァ坊」とは誰だ。小さい女の子の名前じゃないか。譬へばお雅でも「まァ坊」と言い、お町でも「まァ坊」と呼ぶのが巴里(パリ)の習慣。お菊なら「きィちゃん」とか「きィ坊」とかいう様な者で」

 (巡査)「サア本当の名前は知らないけれど、七、八年前までこの巴里の或る社会に、「まァ坊」とばかり呼ばれる女があったが、彼所(あそこ)に居るアノ夫人が実にその「まァ坊」に生き写しだ。
 (長)「アノ夫人とは。」
 「松子夫人だ。」
 「その「まァ坊」と同じ女じゃないか。」

 (巡)「ナニ同じ女ではないけれども斯(こ)うまで似ているのは珍しい」
と異様なる言葉に長々生は益々怪しみ、
 「全体其の『まァ坊』と言う女は何者だ」
とせき込んで問い掛けた。

  
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