巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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島の娘    (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

サー・ウォルター・ビサント作   黒岩涙香 訳  トシ 口語訳

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         (百十二) 全く彼は幸運児だよ

 人の運と言う者は、何処で何う醸されつつあるかも分からない。鰐革の袋を受け取るべき当人の運命が、ここで谷川と網守子とに、醸造せられつつあるのである。若し其の人が、此の評議を立ち聞きでもすれば、谷川の言葉には、自分の運が風に吹かれる灯火(ともしび)の様に、アワヤ将に消えなんとし、網守子の言葉では、又盛り返えされて、煌々と光るが如く感ずるであろう。

 イヤ実際に、立ち聞きはしなくても、今まで其の人の運命が、此の部屋で起きたり伏したりして居たが、到頭起きることに定まった。其れにしても其の当人は何処の誰で有ろう。
 谷川が其の姓名だけを告げようとするのを、網守子は遮って、

 「イイエ、私は其れを聞くに及びません。若し聞いたが為に、其の人へ、恩を着せる様な心でも起こっては、済みません。」
と打ち消した。実に美しい心掛けである。是には谷川も感心した。
 「イヤ、そうまで貴女が心掛けて居らっしゃれば、申し上げますまい。けれど当人はきっと深く感謝することでしょう。」

 網守子は熱心に、
 「谷川さん、私は彼(あ)の鰐革の袋が、私の家に在ったことを、先祖の罪悪である様に感じ、家の恥と思いますから、早く還(かえ)して了(しま)って、颯(さっ)ぱりと自分の心から忘れ度いのです。何うか、此の上、何事も仰らずに、取り運んで下さい。」

 谷川は感服の上にも感服して一々承知した。
 全く網守子の此の決心は、賢い決心で有った。若しも当人の姓名を聞いたならば、何の様に自分の心の平和を失ったかも知れない。
 谷川はやがて辞し、帰る道々も独り幾度か呟(つぶや)いた。

 「アア、運の好い男だなあ。彼(あ)の様に立派な天才を持って居る上に、今は又、大財産が転がり込む。幾ら安く積もっても、五十万円以上の宝だが、世間の人が何の様に彼を羨むだろう。全く彼は幸運児だよ。」

 午後に及んで網守子の部屋へ、青い顔して初鳥添子が入って来た。網守子は親切に、
 「オオ、初鳥さん、病気は何うです。未だ顔色が、甚(酷)く悪いではでは有りませんか。」

 添「私に引き換えて、貴女は大層お嬉し相に見えますが。何か喜ばしい事柄でも。」
 網「ハイ有りましたよ。何時だったか、貴女に鰐革の袋の話をしたでしょう。」
 此の時添子の顔は、更に土色とは為った。網守子はそうと気が付く暇も無く、

 「到頭、彼(あ)の袋を引き渡すべき、古江田利八の子孫が分かりましたよ。先刻谷川弁護士が来て、其の事を知らせて呉れましたので、直ぐに彼の袋を、其の人に渡す様に頼みました。私は是で心の重荷が卸された様に感じます。」

 添子は、立って居る足も定まらないほどに震え、其のまま気絶して床に倒れた。宛(あたか)も病気の為らしく見えた。





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