simanomusume119
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百十九) 君へ意外の品物が
谷川弁護士の口振りで、最早や大抵は推量が出来る。古江田利八の遺産が、蛭田江南に転げ込むに極まって居ると、江南自ら見て取った。
彼は我知らず、首を谷川弁護士の顔の前に突き出して、
「ハーア、私の曽祖父(ひいおじい)さんの遺産が、何処からか出たのですね。」
谷「イイヤ、爾(そう)では無い。決して遺産と云うことは出来ない。」
江南「遺産で無ければ何ですか。」
谷「君には直接に何の血縁も無い或人が、古江田利八の子孫へ、物を贈ろうと云うのだ。詰まり、随意の贈与と云う者だ。」
江「アア其れで私の曽祖父さんに、何か大恩を受けた人が、子孫へ恩を返そうと云うのですね。」
谷「先ア、そうと思って居たまえ。少し事情が違うけれど、何にしても君、意外な品物が転がり込むのだ。余計な財産が不意に出来ると云う者だ。」
谷川は成るべく軽く云って置けば、、実物を受け取った時の喜びが大きいし、若し又間違いと分かった時に、失望の度が少ないと、長年の経験から割り出して、総て軽く云うのである。
江「エ、意外な品物とは?金の塊ででも有りますか。」
谷川は快げに打ち笑い、
「ハハハハ、そう都合好くは行くまいよ。金の塊などとは。」
江「でも貴方が余計な財産と仰(おっしゃ)るからは、満更の品物でも無いだろうと思われます。金目に積もれば、凡そ何れ位の物でしょう。一万円(現在の約一千万円)にも成りますか。」
谷川は又笑って、
「そうさ、一万円ぐらいと思って居れば、大した間違いは無いだろうよ。驚く無かれ、只(たっ)た一万円かな。」
江「其れは何時受け取る事ができますか。」
今の江南に取って、一万円はたとえ、焼け石に水にもせよ、心持は地獄で仏の感が有る。
谷「愈々君に渡すと決まれば、明後日か其の翌日」
江「一万円は欠けないでしょうね。」
谷「イヤ、僕は是で用事が済んだからお暇する。愈々の時には更めて沙汰するから、僕の宅へ来て呉れ給え。」
と言って、其のまま立ち上がり、口の中で愉快そうに、
「驚く勿れ、只った一万円」
と繰り返しつつ去った。
後に江南は顔に喜色を浮かべて、
「物堅い谷川が、ああ迄に云うからは、決して一万円を欠ける恐れは無い。捨てる神あれば助くる神ありだ。路田梨英に遣った千円も助かるし、是では何(どう)にか一時を切り抜ける事が出来る。」
と言い、直ぐに印刷会社へ電話を掛け、
「両三日の中に必ず多額の内金を渡すから、其れまで待って呉れ。」
と断ったが、其れが終わると、又例の恭(うやうや)しい老取次ぎが来て、
「貴婦人です。お名前は云うには及ばないと仰ります。」
扨(さ)ては唐崎夫人であろうかと思い、一寸眉を顰(ひそ)めたが、
「是へお通しせよ。」
と命じた。引違えて入って来た其の貴婦人は、誰あろう網守子である。
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