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島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百二十七) 又も婦人客
部屋の飾りにと言って置いた斧が、忽ち自分を威嚇(おど)す凶器と為り、籠の鳥と思った少女が、一躍して大力士とも見えて来た。それで、勝ち誇って居た自分の一命さえ、殆ど風前の灯火の様になった。是が驚かずに居られる筈は無い。
「部屋の戸をお開き成さい。」
と迫る網守子の言葉に、江南は答える言葉も出ない。網守子は又一足詰め寄って、
「貴方が開いて下さらないなら、私が開きます。」
と言い、直ちに身を転じて、戸の所に行き、大斧を振り上げたと見えたが、忽ちその頭(かしら)は、戸の真ん中の辺に、鳴りを生じて当たった。殆ど部屋中が震える様に響いた。戸は中々堅い。一度、又一度、と網守子の力は益々加わる様に見えた。幾度に及んだか知れないけれど、終に戸を叩き割った。
玄関の番をして居た彼の恭(うやうや)しい取次ぎの老人は、何れほど驚いたで有ろう。自分の部屋に籠もって息を殺した。
戸は全く開いた。イヤ開いたのでは無い、大斧の頭に砕かれて、自由に人の出入りするほどの大穴が開いた。網守子は安心した様子、又も大斧を杖について江南の前に帰り、
「こうして置けば、外から部屋の中が見えますから、誰も貴方と私の間に秘密が有るなどと、疑いはしないでしょう。是で私はお暇に致しますが、其の前に一つ貴方にお尋ねすることが有ります。貴方は路田梨英の居所をご存知でしょう。彼は今何処に居ますか。」
江南は今まで、路田梨英を知って居るとさえ自白しない。けれど今は、驚きの余りに包み果たせることも出来ないだろう。彼の身は戦々(わなわな)と震えて居る。彼は横着に於いては、此の上も無く豪(えら)い男であるけれど、横着と真の勇気とは又別と見える。
網守子には勇気があって横着が無い。彼には横着が有って勇気が無い。彼は咽喉に詰まる様な嗄(か)れた声で、
「私は全く路田梨英の居所を知りません。」
網「其れは又偽りでしょう。」
江「イイエ、彼から手紙は来ましたけれど、居所は記して有りません。」
手紙の事まで白状する上は、全く居所を知らないのであろうと網守子は見て取った。
「愈々(いよいよ)御存知無いとならば、致し方が有りません。それでは是でお暇に致します。サア此の斧はお返し致しますよ。」
と云い、床の上に横たえたまま、戸に開いた大穴を潜り、悠々として立ち去ったのは、実に愉快な態(さま)であった。
後に江南は幾時の間か、良くは心が定まらず、何を考え、何を為して善いか、それさえも知らない様で、椅子に腰を卸し、唯呆然と空を見詰て居たが、ややアって、予(か)ねて約束の添子が訪ねて来た。
「オヤオヤ、此の戸の有様は何したのです。」
と言いながら潜って来た。
注; 横着・・・ずうずうしく、やるべきことをやらずに済まそうとすること。
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