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島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百四十六) 古江田利八の名
梨英は故郷に帰っても、大した当ての有る訳では無い。けれど外に行く所は無いのである。
彼は故郷に家も無い。親兄弟も無いけれど、旧家の末である。多少の縁者も有れば知り人も有る。この様な故郷へ、尾羽打ち枯らして帰り行く辛さを知らないでは無い。けれど未だ故郷には、彼が学資の為に、質に入れた田地の中で、流れもせずに質のまま残って居るのが幾分か有る筈である。
彼は都を立つ時に、古い質を入れ替えて、旅費を作った様に、質の田地を入れ替えて、幾等かの金を得なければ成らない。是がもう今の路田梨英に取っては、最後の一策である。是が出来なければ飢え死ぬ外は無い。
彼はこの様な考えで、悄々(すごすご)と故郷に帰った。成るべく知る人に顔を見られた度く無いものと、忍びやかに立ち回って居たけれど、幸か不幸か、亡き父の知り人に見つけられ、兎も角も其の人の家に身を留めることに成った。
其の翌朝である。彼は起き出ようとしたけれど、頭が重くて、身を持ち上げることが出来ない。多分は多年の艱難や栄養不良などが積り積って、病気が発したので有ろう。熱が高まり、殆ど人事も分からないほどに成ったけれど、成年の身体は、容易に病の為に折(くじ)けて了(しま)うものでは無い。其れも十日余りにして全快した。
彼が網守子と蛭田江南とに手紙を出したのは此の時であった。彼は様々な思いが胸に満ちて、殆ど手紙を出さずには、我慢が出来ないほどと成った。
病気が治って後に、彼は目的の運動を始め、先づ登記所に行って調べたが、質に入れた多くの財産は、大抵流れ尽くしたけれど、未だ僅かばかりの期限の切れない分が有る。
実に僅かでは有るけれど、幸いな事には、土地の相場が上がって居る。彼は知る人の親切で、何うやらこうやら目的の達せられそうな見込みを得た。
ある日、彼れは登記所の記録を繰り返して居る中に、フと自分の家が、如何に昔、此の土地で栄えて居たかを感じた。幾百年の昔からツイ数代以前までは、土地に名高い物持ちであった。其れが零落の悲運に向かい、財産が人手に渡ったのみで無く、家族も段々に死に絶えて、今は自分一人の身と成って居る。
彼は深い深い感に打たれて、先祖の名前などをば、調べるとも無く読んで居るうち、自分の母方に当たり、「古江田利八」と言う名のあるのを見出した。自分の母はワルシー市の某家から嫁入って来たのであるが、其の又母が利八の二女梅子とある。
彼は「古江田利八」と言うこの姓名が、妙に自分の記憶の底に蟠(わだかま)って居る様に感じたけれど、何処で何して聞いた名か思い出すことが出来なかった。
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