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島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百四十九) 下絵と実物
路田梨英は筆捨(ペンブローク)駅で汽車に乗り、発車までの僅かな間、窓の外を眺めて居て、遅れ馳せに馳せ附ける客の中に、黒い眼鏡を掛けた髯面の一紳士を見受けた。是が変装した蛭田江南であるとは、知ることが出来なかったけれど、其の姿が異様に目に附き、持って生まれた絵心を煽(そそ)った。
彼は直ちに下絵帖を取り出して、汽車が出た後まで、其の紳士の姿を自分の記憶から写して取って居たが、自分ながら好く出来たと思った。
又幾時間の後、或る駅で汽車が少し長く停車したとき、彼は其の紳士が、プラットホームに降りて歩んで居るのを見た。彼は又下絵帖を取り出し、今度は実物を眼前に眺めつつ、其の横顔を写したが、此の時は何だか此の紳士が、自分の見知って居る、或る人に似ている様に思い、
「アア、蛭田江南が、若し満面に髯を生やしたなら、丁度此の通りに見えるだろう。」
と呟いたが、気の所為(せい)であるか、其の後は妙に此の紳士と蛭田江南の姿とが結び付いて、両人(二人)を別々に考えることが出来ない様に思われたけれど、此の後は再び此の紳士の姿を見受けなかった。
更に又、時を経て、汽車がもう二時間ほどでロンドンへ着くと云う頃である。彼の前へ忽然として一紳士が立現れ、
「オオ、路田君では無いか。」
と声を掛けた。此の紳士は頬髯を、綺麗に取脱(とりはづ)した本当の蛭田江南である。梨英は奇妙な偶合(ぐうごう)であると感じ、
「オオ、蛭田君か。」
と思わず叫んだ。
若し前の髯面の事が梨英の心に無かったならば、梨英は此の様には叫ばなかったで有ろう。彼は心の中で彼を、江南を恨みもし、賤しみもし、最早や途中で逢ったとしても口も利くまいと云う程に思って居るけれど、今は一種の驚きに駆られて、思わず其の名を呼んだのである。
江南は言い訳する様に、
「僕は直ぐ此の前の駅から乗ったが、君は何所へ行って居た。」
梨「問わなくても君は知って居る筈では無いか。」
江「エ、エ、僕が?、何うして?。」
問い返す江南の言葉には、幾分の不安が籠もって居る。
梨「そうさ、先日僕が筆捨から君に手紙を送ったじゃ無いか。君は夙(つと)《ずーっと前》に彼の手紙を見た筈だ。」
江「爾(そ)う爾う。君は筆捨に居たのだね。勿論僕は彼の手紙を読んだよ。読んだ事に附いて、君に話し度い事が有る。一寸一緒に来て呉れ給え。」
と言って喫煙室へ梨英を連れて行った。梨英は此の時も、若し髯面の紳士の事が心に無かったならば、一緒に行くのを断る所であった。やがて一緒に喫煙室に入るや否や、梨英は無邪気な天才の本性であろう。率直に、
「僕は先刻から君の事を考えて居たよ。是を見給え。」
と言って、彼の下絵を江南に開いて見せた。
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