巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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島の娘    (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

サー・ウォルター・ビサント作   黒岩涙香 訳  トシ 口語訳

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         (百五十二)忽然と思い出した

 若しも蛭田江南が、網守子と結婚したので有ったならば、路田梨英は、即座に発狂したかも知れない。けれど幸いにそうで無いことが分かったので、彼は全く蘇生の思いがした。
 彼は自分の気が急に軽くなった様に感じ、絵心が勃々(ぼつぼつ)《盛んに起こり立つ様子》として動いた。
 「アアこの様な時に筆を取れば何の様な大作でも出来る。」
と呟き、直ぐに以前の「鼠の巣」を指して急いだ。

 宿の主人は、梨英をば逃亡した者と信じて、早や鼠の巣は他の人に貸し、梨英が唯一つ残して在った下絵の行李(こうり)まで、物置へ投げ込んで了(しま)った。
 梨英は、滞って居る払いを済ませ、下絵の行李を受け取って自ら笑った。

 「名の無い画工は、此の様な時に幸いが有る。若し己れが有名な画家ならば、もう此の下絵の行李は宿銭代わりに夙(とっ)くに売り払われた所だけれど、一文にも買い手が無い為め、此の通り無事であった。」
 彼は是から奔走して別の貸し間を見付けた。是は今までの「鼠の巣」より幾分か上等であるけれど、彼は此の部屋を「新しい鼠の巣」と名付けた。

 何しろ行李一つの身体である為め、日の暮れないうちに、早や其の部屋へ身体が落ち着き、愈々絵筆を取ることと為った。
 彼が画かうと思って居るのは、「古い家庭」と云う題で、曾て彼の心に最も深い印象を与えた網守子の家である。

 当年九十五歳の老夫人が、十五歳の曾孫(ひまご)の奏でる胡弓の音に目を覚まし、下田夫妻や波太郎等に取囲まれて、糸車の声を聞きつつ昔語りをする状(さま)が、全く此の世の有様から懸け離れ、又と得難い画の神境を為して居る。

 彼は兼ねてから、幾度も之を画(えが)こうと思ったけれど、二個(ふたつ)とは得られない題材で有り、非常に難しい為め、自分の名を署(しる)さない絵に、之を書くのは、自分の奮発が足りない様に感じ、当時写した其の写生画も行李の底に納めた儘(まま)である。

 彼は今、其れを取り出して倩々(つくづく)と眺めたが、全く、余程心を凝らさなければ、思う様には書けない難題で有る。若し之を失敗(しくじ)ってはと、独り眼を閉ぢ、当時の様を思い浮かべてみると、幾夜も幾夜も同じ事を繰り返して、同じ感じを深くした為め、老夫人の顔色から其の他の事まで、歴々(ありあり)と思い出した。

 「アア是ならば充分に書くことが出来る。」
と云い、立ち上がろうとする際に、忽然として、一種の霊感の様に、彼の心に差し込んだのは、古江田利八と云う名前である。アア古江田利八、古江田利八!是こそは老夫人が此の身を指さして呼んだ名である。彼は思い出すと共に、ブルブルと身を震わせた。



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