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島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百五十三) 数々の思い出
人として自分の母の名を知らない人は無いけれど、母の実母の名を知らない人は、随分有る。更に其の実母の父の名に至っては、おそらく知らない人が多いで有ろう。路田梨英が其の一人である。彼れは早くから郷里を出で、自分の家の歴史に親しむ場合が少なかった為、全く古江田利八と云う名が、自分の母方の曾祖父(ひいおじい)さんに在るのを知らなかった。
戸籍の記録を見て、其れを知った時に、妙に聞き覚えの有る名だと感じたけれど、何所で聞いたのかを思い出さなかった。無理も有るまい。人は五年前に、旅の空で聞いた古人の名を、何(ど)の場合にも即座に思い出すとは限らない。
其れを今は忽然として思い出した。実は心を当時の事に集めて、其れから其れと考えた為めに、眠って居た記憶が、眼を醒ましたのである。
彼れは実に歴々と思い出して、自分の身も震える程に感じた。そうだ、彼(あ)の時に老夫人が、幾度と無く古江田利八と呼んで、過ぎた昔の事を物語、自分も網守子の請いに従い、其の言葉に調子を合わせた。今思えば老夫人が、自分を古江田利八と見たのも、満更の無根では無く、或いは自分の顔形が、其の時の古江田利八に、肖(に)て居るのかも知れない。
学者の説では、隔世遺伝とやら云って、過ぎ去った先祖の面影が、遠い子孫に現れる例が幾等も有る。確か彼の時、老夫人は自分の声まで、昔の利八の声だと云った。
是まで思い出して、梨英の記憶は又一歩を進めた。アア彼の時に老夫人は、利八の首に掛けて居た鰐革の嚢を、中の宝の儘(まま)で私に返すと云った。果たして其の様な宝が、今も有るので有ろうか。有って自分へ伝わる可(べ)きで有ろうか。
そうだ。其の宝は今もある。先日網守子の言葉では、其の宝を、老夫人の言葉通り、古江田利八の子孫に返し度い為めに、嚢(袋)の儘(まま)で銀行へ保管預けにして有るとの事であった。果たして其れは何れほどの値で有ろう。其の宝が十分の一も有れば、二人に分けて二人とも生涯を安楽に暮らせる様に、利八が云ったとの事であった。そうとすれば、一方ならない金目らしく思われる。
如何に梨英が、画(え)の事より外に、欲の無い天才であっても、此の様な運命が、今自分の上へ降り掛かって来たと知っては、心を動かさずには居られない。況(ま)して彼は、算段に算段を重ねて、僅かばかりの金を得て、其れで此の次の機会まで、自分の身を支える事が出来るや否やと、気遣って居る際である。
「アア若しも其の宝が、幾分でも、私の者と成れば、生活の心配無しに、充分、画の力を発揮することが出来る。」
と彼は深い嘆息と共に呟(つぶや)いた。
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