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島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百六十一)忌々しいほどに
梨英は江南を羨むのでは無いと自ら断言した、実に爾(そ)うだ。江南が鰐革の嚢(ふくろ)を受け取ったとしても、羨みもしなければ妬みもしない。けれど、何故に江南が、何事にも自分の身に纏(まと)い附き、自分の運命の邪魔となり、自分に仇をする様な立場に成るのであろう。自分は到底、江南より上に出ることは出来ない様に、生まれて居るのだろうかと、殆ど運命が恨めしい様に感じた。
谷川は慰めて、
「貴方は是だけの手腕が有る以上、誰も恨むにも及びません。貴方の前途は余程祝福が多い筈です。」
梨「イヤ、前途は余り当てにも成りませんけれど、私は江南を羨みは決してしないのです。併し実に意外ですよ。今まで彼とは多少の交際も有りましたけれど、彼が私の従弟で有ろうとは。---其の上に鰐革の嚢を受け取ったとは。」
谷「此の事も私は先刻モッと詳しく貴方へ説明しようと思ったのに、貴方が聞かずに立ち去りました故、今ここで一応申して置きますが、彼の祖母竹子は利八の二女です。貴方の祖母はーーー。」
谷川の言葉の終わらないのに、
梨「エ、二女と云うのは私の祖母梅子です。」
谷「イヤ違います。長女が松子、是は生涯を独身で終わった為子孫が無く、二女が竹子、三女が梅子。」
梨英は不審が晴れない様に、
「併し筆捨市の戸籍簿には、確かに梅子を二女と記して有った様に思いますが。」
と言って、自分が何の為に戸籍の登記を見たかと言う事をまで説明した。
谷「若しや貴方の記憶の誤りか、見損じでは有りませんか。」
梨「見損じとは思いませんけれど、私は何方(どちら)でも好いのです。若し鰐革の嚢が、権利として利八の子孫の当然に相続すべき物ならば、私は再び筆捨へ帰って見直して来て、主張もし争いもしますけれど、先刻のお説の通り、権利で無い以上は、誰が受け取ろうとも、其れを気に掛けて彼れ是れ言うのは無益です。」
谷「イヤ、貴方が其の様に良く事理が分かって、断念なさるのは感心です。」
是れより更に多少の談話は有ったけれど、数刻の後に谷川は三百円を払って、三枚の下絵を我が物として立ち去った。後に梨英は三百円の金を手に取り、
「アア助かった、是でもう何の様な傑作でも出来る。」
と言い、顔に熱心の色を光らせた。
この様にして彼は、全く鰐革の嚢の事を断念したけれど、彼とても人情の弱点は免れない。人も有ろうに、蛭田江南へ其の様な大財産が転がり込んだかと思うと、一方成らず癪に障り、殆ど忌々しい程にも感じられた。けれど其の不快が却って彼を刺激し、益々絵の方へ力を凝らさせる動機とは成ったらしい。
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