simanomusume165
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百六十五) 運の神様
「百万長者!百万長者!」
此の一語ほど美しく響く言葉は、他に殆ど類(たぐい)
が無い。其れも他人の言葉に聞いては其れ程で無いけれど、自分が愈々百万長者と為った上で、此の言葉を口に唱えれば、天にも登るほどの嬉しさが、心に満ち、身に溢れ、八万四千の毛穴から、悉く吹いて出る様な心持ちがする。---だろうと思われる。
唯此の言葉を唱え度いのみの為に、生涯を齷齪(あくせく)して居る人が、世の中にはどれほど有るか知れない。イヤ、実は総ての人が其れで有って、其れで無い人は奇人とか変人と云って笑われる程の次第では有る。勿論、事実を伴わずに、徒(いたずら)に口で「百万長者」と言う人は、幾らも有ろう。其れだから蛭田江南は、自分で其の様な口ばかりのと区別して、
「事実百万長者だ」と、事実の一語を加えるのである。
「事実百万長者」は世の中に爾(そ)う沢山は無い、無いは金、有るは借金と云われる通り、大抵の百万長者が事実では無く、名のみである。添子も我知らず其の尾に就いて、
「事実百万長者ですか。」
江「爾うよ、事実百万長者よ。」
添「本当の百万長者」
江「オオ、本当の百万長者!」
添「全くの」
江「全くの」
夫唱えて妻和すと云うが、此の様な言葉を事実に夫が唱えて妻が和するのは、嬉しさの頂上ではないだろうか。江南も添子も嬉しさの外は何にも知らない。
暫くして添子は、
「私嬉しくて耐(たま)りませんワ。本当に金持ちに成りましたねえ。もう今までの様に、嘘で固める必要は無くなりましたのねえ。尤も私、幾等かは嘘が好きよ。交際社会は嘘の上に築かれて居るでは有りませんか。
今或人を褒めるかと思えば、其の人が背後(うしろ)に向くのを待って、直ぐに悪口を言うでしょう。ねえ貴方、嫌な人にもお世辞を云ったり何かしてさ、是くらいの嘘は私好きと云っては何ですけれど、先ア好きですわ。幼い頃から稽古して居るのですもの。けれど、ねえ貴方、其れより以上のはーーーー、今迄の様に嘘ばかりで固めた嘘は、何だか背後から令状を以って巡査が来る様な気がしますもの。」
江「何だって其の様な事を云う。もう何の様な正直な生活でも出来るのに。」
添「本当ですわねえ。人の運と言う者は、何と言う不思議な者でしょう。何事も総て運の神様が、お膳立てをして下さるのでは無いでしょうか。私は幼い頃から馬車も有れば立派な馬も有りましたが、それも自分で作ったのでは無く、運の神様が与えて下さった。其れが父の破産で忽ち無くなったのも、運の神様、今度又百万長者に成ったのも、運の神様、ねえ、貴方、運の神様は取ったり、与えたりなさるのねえ。」
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