simanomusume176
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百七十六) 例の恭々しい老人
添子は実に盗坊(どろぼう)(泥棒)である。けれど江南の口から、
「泥棒め、泥棒め」
と罵(ののし)るのは、果たして添子を罵るのだか、或いは自分の身を罵るのだか分からない。泥棒と言う一事は、江南の方がよっぽど上手かも知れない。
「シタが貴方は?」
と問返され、梨英の書いた絵を指さされて、江南は今まで振り上げて居た手でもって、忌々(いまいま)しそうに、傍らの卓子(テーブル)の上に積んである書付の類を、横殴(なぐ)りに擲(なぐ)った。書類はパラリと部屋の一方に散乱した。けれど彼の怒りは此の様な事で紛れる筈は無い。
彼は更に両の手を振り回して、虚しく空中を叩く様にし、部屋の中を右に左に荒れ廻り、狂い廻った。是が実に人間の怒り枢点(すうてん)《頂点》と云う者だろう。
古い歴史を読んで見ると、昔の英雄的国王は動(やや)もすると、非常な怒りを発し、廷臣等は余りの恐ろしさに皆逃げて、其の鉾先(ほこさき)を避けたと言うことが書いてある。勝利者と言われた維廉王(ウィリアム王)や利査徳王(リチャード王)や約翰王(ジョン王)などが其れである。
多分国王などと言う者は、日頃我儘(まま)に慣れたが上に、欲も深く、大きな事ばかり企てた為に、旨(うま)く行かなかった場合には、凡人と異なった、ドエライ腹立たしさを感じたであろう。凡人には其の様な場合が無い。所が江南の身には、それらにも比べるべきほどの腹立たしい場合が来たのである。
荒れ廻り、狂い廻っても、未だ彼の腹は癒(い)えない。其のうちに彼は段々と、声を発する力が出て来た。今までは殆ど咽喉までも塞(ふさ)がって居たので有ろう。彼の声は、初めの中は唯の呻(うめ)きで有って、何の言葉とも為らなかったが、次第にそれが罵(ののし)りの言葉とは為り、如何なる辞典にも無いだろうと思われる様な、口穢(ぎたな)い言葉が、雨のように添子の頭上に下った。
「馬鹿め、白痴(たわけ)め、悪魔の出来損いめ。」
などと云うのは、其の中の極々軽い語であった。
添子は何の返事もせず、何の抵抗もせず、単に無意味な声を聞く様に鎮まり返って居た。
若しも雷に打たれて死にたいと希望する人が、雷の鳴るのを聞く態度ーーーと言う様な態度が有れば、多分其れが今の添子の態度に宛然(そっくり)であろう。
このように江南の荒れ狂う部屋の外には、例の恭(うやうや)しい老人が控えて居た。
此の老人は姓を保津と云い、此の様な家には、不似合いなほど正直な気質の人で有った。彼は部屋の中の此の騒ぎを、聞き度く無いと思ったけれど、網守子の大鉞(おおまさかり)の事件以来、間の戸が無くなって、未だ代わりが出来ず、幕を垂れて有るのだから、幕越しに一切の声が聞こえて来る。
彼は只管(ひたすら)に呆れて了(しま)い、迚(とて)もこの家は正直な人間の奉公すべき所では無いと見限り、夜に入った後に、暇を取って去って了(しま)った。
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