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島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百八十一) 小さな額
江「其れですから、私は彼(あ)の紅宝石(ルビー)を辞退致します。正当の受取人は私では無く、二女梅子の子孫だろうと思います。孰れにしても、私は正直に貴方へ此の事をお知らせ致さなければ成らないと思いまして。」
谷川は実に驚いた。尤も梅子が利八の第二女であると云う事は、先日路田梨英の口から聞いたけれど、其の時は、多分梨英の思い違いで有ろうと断定し、その言葉を取り上げなかった。爾(そう)すれば、梨英の云った事が、却って事実で有ったと見える。
谷「僕の持って居る書類では確かに二女竹子、三女梅子と成って居る。けれど是は原本で無く謄本で有るから、或いは写し違いで無いとも言われない。此の点は更に僕の手で篤(とく)と調べる事にするが、其れにしても、君は、自分の祖母竹子が第三女であると分かった時に、直ぐに八十萬円も値打ちの有る、彼の紅宝石を辞退すると云う気に成ったのか。君の正直には実に感心の外は無い。」
実を云うと、江南は先頃添子をば初鳥未亡人と偽り、此の谷川を欺いた事が分かって以来、幾分か自分が谷川から不正直な男の様に思われて居はしないかと、内心不安をも感じて居るので、斯(こ)う正直者と云われるのは、全く嬉しい。彼は猶も正直の上塗りをする積りで、
「イヤ、先生、私はお恥ずかしい話ですが、実を云うと祖母竹子が第二女で無く、第三女だと分かった時には、失望やら腹立たしさに、殆ど其の聖書を破り捨て度い程に思いました。」
谷川は果たして関心の度を深くし、
「イエ、其れは尤もだ。其れが人情だ。併し其の様にまで思ったのを、自ら思い直して、この通り正直に言って来るとは、通例の人には出来ないことだ。」
江「イイエ爾(そ)うお褒めに預かっては痛み入ります。私は其の時に、債々(つくづく)と自分の精神修養の足りないのを感じました。自分の受け取る可き筋で無い物を辞退するのに、失望を感ずるなどとは、若しや此の身は、悪人にでも生まれて居るのかも知らんと情け無く成りました。
何と云うエラい嘘の吐き方だろう。成るほど、是ほど嘘が吐ければ、嘘ばかりで世を渡ることの出来るのも不思議は無い。
谷川は嘆息しつつ、
「イヤ世間の人が総て君の様に、自分の受け取る筋でない物は、如何なる失望にも打ち勝って、辞退すると云うほど正直なら、我々の職業も誠に簡単で世話は無い。君の此の行いは人の手本だ。」
と褒めた。
江「アア私は是で重荷を卸した様な心持に成りました。」
嘘ばかり、
「今日は是でお暇に致します。」
と言って振り向く際、大変な物が江南の目に映った。其れは江南自身が、贋髯(にせひげ)に変装して汽車へ走り込む姿が、下絵(スケッチ)の儘(まま)で小さい額に成って、此の部屋へ掛かって居るのである。
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