simanomusume182
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百八十二) 人物が危険です
唯一つの小さい額だけれど、江南の目に映ずると共に、彼れの心には宛(あたか)も電光の如く様々の思いが閃めいた。
彼は先頃の変装旅行を、誰にも見現される恐れが無いと確信して居るけれど、唯一つ、路田梨英に其の付け髯の顔を写し取られたこと丈が、何だか気掛かりである。
其れが為に彼は、梨英の手から其の下絵を奪おうとしたけれど、目的を達することが出来なかった。其れでもまだ、何とか梨英を騙して奪い取らなければ為らないと、窃(ひそ)かに決心はして居たけれど、先日来の失望事件の為め、其れ迄は手が廻らなかった。其れが今下絵の儘(まま)で、谷川の手に廻り、既に額縁の中に入れられ、此の部屋に掲げられて有るとは、何と云う危険な次第で有ろう。と云ってもう奪い取る見込みは絶対に無かった。
其れに又、梨英と谷川と、何の近音(ちかづき)も無い筈なのに、是で見ると何等かの交際が有るとしか思われない。
江南はアタフタと悶えた。寧(いっ)そ知らない顔で立ち去ろうかとも思ったけれど、何とか此の絵の効力を揉み消して置き度い。彼は咄嗟の間に思案を定め、非常に軽い調子で、
「オオ、先生、貴方は私の弟子の書いた絵まで鑑賞して下さると見えますね。」
谷「オオ、是を書いた路田梨英は君の弟子か。」
江「ハイ、随分彼には教え込みましたけれど、弟子を取るなどと云うと、我も我もと所望者が出来ますので、世間へは堅く秘してあります。
谷「僕は初めて此の人の絵を見たとき、君も知っての通り、網守嬢の部屋で人と争ったが、弟子にしては殆ど師匠を凌駕するほど旨(うま)いじゃないか。」
江南は大胆に爾(そ)うです。珍しい天才だと見込んで私も教授しましたが、少し人物が危険ですから、今では余り近づけない様にして居ます。」
谷「人物が危険?」
江「爾(そ)うですよ。殆ど狂人にも近い程の妄想家で、時々飛んでも無い事を云ったり、飛んでも無い事をするのです。既に此の下絵なども、私に見せて、是は君の肖像だなどと云うのです。」
谷「爾う爾う。僕にも其の様な事を云って、僕も実は半信半疑で居たが!」
紅「其れは斯(こ)うなんです。彼が何所からか倫敦(ロンドン)へ来る汽車の中で、此の下絵を書き揚げた所へ、偶然私が乗り込んだ者ですから、彼は私の顔を見ると同時に、例の妄想狂がフラフラと起こって、是は君の顔だよなどと云うのです。したが先生は何して彼と御懇意です。」
谷川は少し考へ、
「今は云う可(べ)き時期では無いけれど、君へ云うのは構わない。此の梨英は君の遠い従兄弟だよ。」
江南は知って居るけれど、谷川が其れを知って居るのに驚き、
「エ、其の様な事は無いでしょう。其れも又、例の妄想では有りませんかね。」
と白ばっくれて問返した。
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