simanomusume190
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百九十) 恋人の直覚
「梨英が来ました。梨英が来ました。」
と網守子の叫ぶのを聞き、
小笛「貴女には乗って居る方の顔までも分かりますか。」
網「顔までは分かりませんけれど、梨英です。那(あ)の船は、此の島へ来る水路ですが、梨英の外に此の島へ来る人は有りません。速達船はもう先刻来ましたから、梨英が特別に舟を雇ったのです。
全く極まって居る様に言い切るのは、恋人の直覚と云う者であろうか。小笛は半信半疑の様で、
「爾(そ)うでしょうか。」
網「爾ですよ。此方(こちら)からも舟を出して途中まで迎えにでましょう。」
と言い、早や小笛の手を取って、走る様に山を下った。
小笛は寒気の為に気が進まないけれど、引き摺られる様に随(つい)て行った。
やがて水際まで降りると、「子供」と云われる例の老僕波太郎が居たので、
網「早く舟を出してお呉れ。」
波「嬢様、何所へ行くだよ。」
網「母島から今来る舟が有るから、途中まで迎えに。」
波「来る舟なら茲(ここ)に居さっしゃれ。」
成るほど理屈である、網守子は直ぐ自分の手で舟を出し、小笛を急(せか)してヒラリと乗った。波太郎も渋々乗って櫂を取った。
此の時までも小笛は、果たして梨英だろうかと疑っていたが、頓(やが)て漕ぎ出でて、島の角を曲がると、向こうからの船に逢った。
「オオ梨英!」
「オオ網守子(あもりこ)」
と互いに懐かしい声が波の上で交換せられた。
舟と舟とは舳(へさき)を並べ、舫(もやい)合った《舟と舟を一つに繋ぐ》様になって此方(こちら)へ漕いだが、梨英は網守子の外にまるで他の人が居ないかの様に、網守子も梨英より外の人は、目に入らないかのように、互いに舟と舟とで問い答えた。
梨英は上陸して下田夫妻にも歓迎せられ、先に来た時、自分の居間の様にした其の部屋へ通されて、僅かばかりの荷物を卸した。彼は、此の前に網守子に逢った時の、乞食の様な有様とは違う。立派とは行かないけれど、新しい衣服に紳士の体面を整えて居る。全く谷川弁護士から受け取った、三百円の画料が彼を助けたのである。
梨英は宛も、第二の故郷へ還(かえ)った様に感じて、自分と由緒のあった木の根、岩角などまでも見廻ったが、午後に及んで又も海へ乗り出だそうと云う相談が極まった。思えば此の海が梨英の身の運を支配した様な者で、彼の絵までも大抵は此の海から来ている程なので、海を慕うのも無理は無い。
無論小笛も誘われたけれど、小笛は全く風邪の心気である為、辞して自分の部屋に引き籠った。舟は波太郎に漕がせ、外に二挺の櫂を載せ、急ぐ所は三人で漕ぐ用意をして外に出たが、実は波は極めて平らかな日で、その様な用意などは要らなかった。
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