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島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(二百一) 網守子再び活動す
網守子が谷川の事務所に入ったとき、谷川は不在であった。網守子は小笛と共に其の帰りを待った。待って居る間に網守子の目に留まったのは、彼の小さい額である。網守子は立って近づいて篤(とく)と眺め、
「小笛さん、先日梨英が話したのは此の画でしょう。」
小笛も立って、
「成るほど此の姿は彼奴(きゃつ)ですねえ。」
小笛と網守子との間に「彼奴(きゃつ)」と云えば。もう蛭田江南の事と定まって居る。
網「爾(そう)です。彼奴が、贋髯(にせひげ)を附けて、汽車の中へ走り込む所を、写生したと云ったでしょう。」
笛「爾うです。実に巧い画(え)ですねえ。」
網「今度梨英が何の様な事で捕らわれたか、谷川さんが帰って来なければ、分かりませんけれど、汽車の中でも、幾度も貴女に云った通り、何でも梨英の身に禍いが起こるならば、必ず彼奴の仕業ですよ。」
小笛も江南を知り、江南を憎むことは網守子に劣らない。自分の詩を盗み、自分の兄の、命よりも大事な戯曲をまで、盗もうとした敵(かたき)である。
「爾(そう)です。私も爾う思います。何の様な事柄か分かりませんけれど、吾々の身に禍いが来るならば、何でも彼奴が其の原因であると思って、間違いは有りません。」
と如何にも憎気である。
此の様な所へ谷川が帰って来た。彼は驚いて、
「ヤア、貴女が御上京成さっても、仕方が有りません。尽くせるだけの手は私が尽くしますから、貴女は矢張り島に留まる方が宜(よ)かった。」
網「梨英が捕らえられたと聞き、何して島に居られましょう。谷川さん、梨英は私の夫ですよ。許嫁の約束を結びましたよ。」
谷川は賛成の出来ない様な面持ちで、
「其の事は梨英が捨部竹里に話したとかで、私は捨部から聞きました。貴女は実に突飛な事を成さるので。」
網守子は半ば狂気の様にも見える。
「私はもう満二十歳の誕生を過ぎました。貴方のお説教を聞きませんよ。其れよりも、早く梨英の事を聞かせて下さい。彼が捕縛されたと云うのは、電報の間違いでは無いでしょうね。」
谷「お気の毒ながら事実です。」
網「何の為だか知りませんけれど、谷川さん、梨英の身に災難が起こるのは、総て彼奴の為ですよ。彼奴の仕業に相違無いのですよ。」
と言って、額の姿を指さした。実に大変な権幕である。
谷川は叱る様な、矯(たしな)める様な語調で、
「貴女は何と仰る。貴女の心理状態は私には分かりません。」
網「貴方は此奴が何れほどの悪人であるかを知らず、此奴が今まで梨英を何の様な目に遭わせたかをも、お知り成さらないから私の云う事が分からないのです。此奴です。此奴です。」
全く網守子としては、こう思うのも無理は無い。
「ですが谷川さん。一応、事の次第を聞かせて下さい。聞けば必ず此奴の仕業と分かります。」
谷「先ア、静かにお聞き成さい。」
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