simanomusume207
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(二百七) 寧ろ歓迎する調子
添子は曾(かつ)て網守子から、初めて紅宝石(ルビー)の受取人が分かったと聞いた時、即座に気絶した。彼女は悪人であるけれど、度胸の据わった悪人では無い。言わば大家の令嬢が、事情の為に止むを得ず悪人と為ったので、知恵は余るほど有るけれども、勇気は足りないのである。
網守子は直ぐに添子の前に立ち、
「初鳥夫人、蛭田江南は留守ですか。」
と問い、更に思い出した様に、
「オオ貴女は初鳥と言うのでは無いのですねえ。私を欺いていたのですね。」
網守子は敢えて責めるのでは無いけれど、少しも遠慮しない調子である。添子は恐れと、極まり悪さが一緒と成り、小さい声で、
「誠に済みませんでした。実は親類の遺言に妨げられまして。。。」
と、幾度も用い古した弁解を持ち出した。
網「ナニ其の様な言い訳など聞くに及びません、貴女を何と呼べば好いのですか。蛭田夫人と言うのですか。」
添「ハイ」
網「蛭田夫人、貴女の夫はお留守ですか。」
扨(さ)ては自分へ用事では無く、江南へ用事が有って来たのかと添子は聊(いささ)《少し》か落ち着いた。
「ハイ先刻、外へ出ましたが、御用事ならば私が伺って置きましょう。」
網「イイエ、直々お目に掛からなければ成らない用事です。お帰りを待ちましょう。」
何の用事だか分からないけれど、容易ならない剣幕なので、決して嬉しい事柄では無いと思った。
出来る事なら追い払い度い程にも思いつつ、
「帰りの程は分かりませんが。」
網「遅くても介意(かま)いません。待って居ます。」
都の貴婦人ならば、決して此の様な無遠慮なことは言わない。けれど添子は、良く網守子の気質を知って居る。一旦斯(こ)うと言い出しては、中々後へ引くもので無い。
「オヤオヤ」
と心の底で持て余しつつも、仕方なく椅子に請じ、小笛にも挨拶した。
けれど江南の帰りは思ったよりも早かった。網守子が腰を卸すと間も無く、外に足音がして、入口の戸が開き、彼の立派な姿が部屋の中に歩み入った。彼は怖気(おじけ)の満ちた添子とは全く違い、網守子と小笛の姿を見て、
「ヤア是は珍客?」
と寧ろ歓迎する様な調子で、更に
「何の仕合せで、貴女のお出に預かったのでしょう。」
と微笑(ほほえ)むのは、今に初まったことでは無い、彼の厚皮(あつかま)しさで有ろう。
彼は先頃、折角手に入れた百万円の大財産が、自分の妻に盗まれた糟(かす)であると分かった時、発狂するばかりに失望し、怒り、泣きもしたけれど、谷川へ辞退の旨を申し出て後は、日々に其の痛みも忘れ、其れに其の事以前は、添子が君主で自分が奴隷であったのが、其の事の為、添子の方が奴隷の如く小さくなってしまったので、全く一家の大将に成り済まし、万事にのびのびとして居る。
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