simanomusume213
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(二百十三) 夜逃げ、夜逃げ
成るほど、江南が紅宝石(ルビー)を辞退した一事が、何処から見ても、彼の潔白を示している。此の大いなる事実に対し、何しても彼を遣り込めることが出来ない。彼を罪することが出来ない。
如何に彼を憎む人と雖も、彼を信じるる外は無い。全く網守子は、もう自分の力が及ば無い様にも思った。
けれど何所かに偽りが在る。此奴(こやつ)より外に、戸籍を切り取った人の有る筈は無い。
網守子は悔しさに堪(た)えられない。最後の努力を以て又叫んだ。
「貴方が何と言おうとも、私は検事の前へ言い立てます。貴方は決して紅宝石を辞退する様な、正直な人では有りません。貴方は、貴方の妻添子を、初鳥未亡人と偽り、私の家へ住み込ませました。
是も戸籍を偽ったのと同じ仕方では有りませんか。そうして貴方は、添子の口を以て、三萬五千円(現在の約3,500万円)の無心を、私へ言わせました。」
江「添子が、何を無心したからと言って、私の知る事では有りません。」
是にも添子は呆れた。けれど無言である。
網守子の声は其の様子と共に、益々強くなって来る。
「貴方は妻の有る身で、私へ結婚を申し込みました。貴方は路田梨英の絵を偸(ぬす)み、自分では絵筆の持ち方も知らない癖に、自分の画だと称し、自分の名前を付けて発表して居ます。貴方は茲(ここ)に居る柳本小笛の詩を盗み、自分の詩だと称して、雑誌にも載せ、詩集まで出版しました。」
江南「嘘です。嘘です。貴女の言う事は皆嘘です。一つも証拠が有りません。」
網「是を嘘だと言う程の貴方ですもの、紅宝石を辞退した事にも、何処かに偽りが有るに違い無いのです。其の偽りは、検事に調べて貰います。」
是だけ言って網守子は身を転じつつ、
「貴方が何と仰っても、私は検事局へ出て、是だけの事を言い立てます。私の言葉が間違いなら、私は誣告(ぶこく)の罪とやらを受けましょう。貴方は私へ言っただけの事を、裁判所へ出た上で、お言い成さい。」
言い捨てて網守子は、小笛と共に立ち去ろうとした。
江南は猶(ま)だ平気を装って居るけれど、添子の方が慌てて、
「嬢様、嬢様」
と引き留めようとした。
網守子は振り払って、去って了(しま)った。
後に江南は、突っ立ったまま、只空を眺めて居る。網守子の立ち去ったのに、安心した様子も見えない。
添子は恐ろしさに堪えられない様に、忽ち江南に縋(すが)りつき、
「貴方は先ア空々しい嘘ばかりで、是が逃れられると思いますか。」
江「網守子の言葉に負けて了(しま)えば、猶更(なおさら)逃れられないのさ。」
添「でも貴方は何うする積りですか。網守子はあの様な気質ですから、検事へ訴え出るに決まって居ますが。」
江「夜逃げ、夜逃げ」
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