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島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(二百十八) 芝居気を帯びて
此の真夜半(まよなか)に、江南の妻添子が尋ね来ようとは思わなかった。網守子は立ち塞(ふさ)がったまま、咎める様な口調で、
「貴女は何の為に来たのですか。」
添子は無言のまま背後に振り向き、先ず戸を確(しか)と閉ぢた上で、重ねて網守子に向かうのは、中々落ち着いた動作である。
「ハイ、お詫びやらお願いやら、色々お話しが有って参りました。」
静かな、恭(うやうや)しそうな、哀れそうな声である。
網守子はまだ厳重である。
「お願とは、貴女の夫が白状でもしましたか。」
と云ったまま身も動かさず、却って鋭く添子の様子を見た。添子は泣く様な声で、
「嬢様、そう厳しく仰(おっしゃ)らずに、此の様な真夜中に尋ねて来る女を、憐れだと思って下さい。」
云いながら、床の上にガックリと膝を折り、網守子の身に縋(すが)り附いた。
勿論、是れは舞台の上で仕覚えた所作である。言葉も仕ぐさも、前もって斯(こ)うと考えて来たのであろう。
けれど此の仕ぐさが、妙に網守子の心を和らげた。網守子は、未だ添子の巧妙な偽りを見破るほど、世故に長けては居ない。後で考えて見れば、偽りと分かる事柄でも、随分其の場では騙(だま)される。
頓(やが)て添子の手を取って引き起こし、自分と向かい合って椅子に座らせ、
「貴女の夫が白状でもしましたか。」
と再び問うた。添子は顔を上げて、網守子の顔を見ることも出来ない。恥じらう様に伏し目のまま、
「嬢様、嬢様、貴女が種々御心配なさるのも、御自分の愛人をーーイヤ所天(おっと)をーー所天(おっと)同様の方を、救い度い為では有りませんか。私が今夜参りましたのも、自分の所天を救い度い許りの為です。
貴女が所天(おっと)をお思い成さる心と、私が所天を思う心と何(ど)う違いましょう。嬢様、何う違いましょう。嬢様、何うぞ御自分の苦しみに引き比べて、私の辛さをもお察し下さい。」
網「貴女の言うことは、私には良く分りません。直ぐに事柄を述べ成さい。」
此の様な重大な場合に、添子の言葉が、如何に芝居気を帯びて、如何に迂遠(まわりとお)いかは、今までに既に分かって居る。
「嬢様、貴女は御自分の所天(おっと)を、牢から救う為めに、私の所天を牢へ入れよと仰るのでしょう。」
網守子は少しも間を置かず、
「其れは、貴女の所天が真の罪人で有る為ですよ。若しも梨英の方が、本当の犯罪人なら、私も決して誰にも泣き附きなど仕ませんよ。貴女の所天蛭田江南が、梨英の戸籍を切り取ったことは、私には良く分って居ます。」
添「では嬢様、梨英さんが罪を免れさえすれば、貴女は其れで宜(よ)いのでしょう。まだ其の上に、私の所天を牢に入れ、私を悲しませなければ成らないと、仰るのでは無いでしょう。」
網「だって蛭田江南を罪に落とさなければ、梨英の身に、罪の無いことが分かりませんもの。」
中々に談判が纏(まと)まり相には見え無い。
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