simanomusume231
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(二百三十一) 償わねば成らぬ
何としても約束を守る外は無い。約束では無く誓いである。誓いを破ることは出来ない。何うしても添子並びに江南の罪に対し、此の身は沈黙して居なければ成らない。
網守子は斯(こ)う思い定めると共に、添子の憎さが心頭に込み上げた。
良くも、良くも、此の身を斯うまで苦しい境遇に推(おと)した者である。とは云え今更仕方が無い。憎い憎いと思いつつも、其の憎い敵を保護しなければ成らない。
けれど網守子よりも更に辛いのは、谷川弁護士であろう。彼は焼けるゴムの臭気が、鼻を衝(つ)いても、まだ充分には屈服しない。
「イヤ皆が皆な贋物と言うことは有るまい。其の中に幾個かは本物が有ろう。」
彼は全く取のぼせて、此の様な事を云うのである。彼は自分の管理品が、人に盗まれていようとは、思う事が出来ない。
甲商人は答えた。
「イイエ、一個残らず皆贋物です。紅宝石(ルビー)で無くゴム製です。」
彼は網守子が、
「アア分かった。此の様な値打ちの無い品だから、其れで江南が辞退したのです。」
と口走った言葉をも聞いた。其の意味も分からない事は無い。けれど篤(とく)と味わって見る余裕が無い。
彼の心は只自分の失策と言う一念に満ちて居る。
実に谷川の失策である。誰が何の様にして、本物と贋物とを取り替えたにしても、自分の落ち度であることは同じ事である。自分は今が今まで、贋物などと思いも寄らず、何人と対しても、堅く請け合うほどの心で居て、ゴムの臭気がしてすらも、まだ承知しなかったのである。何と言う間抜けであろう。
其れにしても何時本物が盗まれたので有ろうか。イヤ盗んだ後へ、贋の品を詰め替えて有る所を見れば、通例の盗みでは無い。全くの詐欺である。
けれど、自分の金庫へ引き取って後に、此の様な詐欺が行われようとは思われない。爾(そう)すれば、自分の金庫へ引き取って居ない前、即ち銀行の庫中に於いて摺り替えられたのであろう。とは云へ、自分の金庫と銀行の金庫と、何方が確実であろうか。
銀行の金庫が、弁護士の金庫よりも不確かと云う筈は断じて無い。爾(そう)すれば、自分の金庫で盗まれる筈の無い訳ならば、銀行の金庫に於いても又、詐欺に罹(かか)る筈の無い訳である。
けれど此の様な疑いはどちらにしても、実物の既に無くなった今に於いては、全く無意味である。
銀行で盗まれても、我が金庫で盗まれても、其れと気の附いた事が今日只今である以上は、自分の責任は免れない。銀行に在る中にとしても、網守子に対しては、自分が間接に保管の責任を帯びて居た。
サア自分は償わなければ成らない。
七十五万円(現在の約7.5億円)を償わなければならない。
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