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島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(二十四) 三重の天才
素人音楽会とは云う者の、定まった番組が有るでは無く、半ば談話会である。此の夜集まのは、諸方面の紳士貴婦人、七十人ほどで有った。
中に、独逸から帰朝した某大家が、特に此の夜の呼び物である様に噂さされた。此の大家のピアノの外は、多く人の談話の声を鎮めるに足らなかったが、其の後へ、主人男爵に勧められ、網守子が胡弓を持って現れた。此の大家がピアノで伴奏した。実は藤子が網守子の芸を気遣い、此の大家に、付き添いを頼んだのである。
網守子は、多くの譜の中から、素人の手に終えない、独逸のシューマンのソナタを選んだ。是は此の大家へ敬意を表してであろう。大家は少し網守子の大胆に驚きつつも、笑顔を以て賛成した。頓(やが)て網守子の手が動き始めると、素人には分からない其の曲の秘密が、一々に胡弓の音色に現れた。
是は真の天才と修行とを兼ねた人で無くては出来ない。満堂の談話の声も、何時の間にか静まった。
弾じ終わると、大家は全く敬服した様子で、「今一曲」と云った。此の所望が、殆ど総ての聴く人からも繰り返された。
次に網守子が、幼い頃から弾き慣れた、島歌の一節を弾じた。前の重々しいのに対し、聴く人の心に、軽い爽快な感じを満たした。猶(なお)も所望の声が続いたけれど、網守子は辞した。誰よりも驚いたのは藤子で有ろう。
「網守子さん、私は聴いて居て、熟々(つくづく)と貴女の芸が羨ましくなりましたよ。」
と云った。勿論此の後でも、種々の曲を奏した人はあるけれど、孰(いず)れも、傍らに居る一部分の人だけしか、聴いて呉れなかった。
暫くすると、主人男爵が来て、
「サテ、寒村嬢、先刻云った大天才に御紹介しましょう。」
網守子は、もう心を落ち着けて居る。其の大天才が、縦(よ)しや自分の思う人で有っても、胸を躍らせたり、顔を赤めたりして、田舎者の様に思われては成ら無いと思い、殆ど男子が初めて戦場へ臨む様な思いで、部屋の一方へ連れられて行くと、一紳士に引き合わされた。
違う、違う、路田梨英では無い。年は三十歳ほどに見える。立派な重々しい人である。
「私は蛭田江南と申します。」
と彼は名乗った。
蛭田江南、名前だけでは何事も分から無い。
男爵は説明した。
「文芸家としても、詩人としても、画家としても、蛭田君ほどの大成功は、今のロンドンに二人とは有りません。」
云う所へ、谷川弁護士も来て、
「詩人、文芸家、画家、全く蛭田君は三重の天才です。」
と褒めた。
天才と云う言葉は、曾(かつ)て幾度も梨英の口から聞き、今でも網守子は、天才ほど貴い者は無いと信じて居る。
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