simanomusume243
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(二百四十三) 逃亡
谷川は捕吏の長に向かい、
「私は貴方がたの捕縛なさる前に、当人達に逢って、聴き度いことが有りますが。」
捕吏「宜しいです。お入り成さい。」
谷「若しや其の為に、取り逃がす様な事が、有りはしないでしょうか。」
捕吏「大丈夫です。何処からも逃げる道は無いのです。貴方が話しが済んで出て来るまで、私し共は張り番して待って居ます。」
頷(うなづ)いて、谷川は入口の戸を開こうとした。戸は堅く鎖(しま)って居る。更にトントンと叩いて見た。内から何の返事も無い。又叩いた。矢張(やっぱ)り返事が無い。
そうと見て、捕吏の長は、容易ならない顔付で、
「若しや既に逃亡したのでは無いでしょうか。」
谷「其の様な筈は無いと思いますが。」
イヤ筈が無いでは無い。昨日谷川が来て、添子に逢った時に、谷川自身は添子の言葉や素振りから、何事も察することが出来なかったけれど、添子の方は、谷川の言葉で、様々の事情を察し、既に紅宝石(ルビー)が贋物と分かって、自分の身が大いに危険に迫っていることを知った。
其の後で、大急ぎに様々の用意を運び、他人(ひと)から預けられて居る品と自分の品との見境も無く、頻りに売り払い、更に自動車を駆って、様々に奔走して居た。
捕吏は更に自分の力を以て戸を叩いた。返事の無いのは、依然として同じである。
「何(どう)も留守の家らしい。仕方が無い、此の戸を叩き破って踏み込まなければ。」
と云い、直ぐに手下の者を呼び、叩き破れと命じたが、手下の一人は早くも横手の窓に手を掛け、音も無く其の戸を開き、身を躍らせてヒラリと中に入った。其の後から又一人が同じ様に中に入った。
谷川と捕吏の長は、無言で立って居ると、中から今の手下の一人が戸を開き、
「電灯は点火(とも)って居ますが、何も怪しいです。」
孰(いず)れの部屋も、悉く電灯は点いているけれど、逃亡したことは確かである。額で有ろうが、その他の器具であろうが、総て取り外れて、何(ど)の部屋も全くがら空きである。
「アア全(すっか)り用意して逃げて了(しま)った。」
谷「夜に入って逃げたと見えますね。電灯の附いて居るところを見ると。」
長「イヤ其れは分かりません。多分昼間から電灯を捻(ひね)り放しにして置いたのでしょう。夜に入って近所の人に不在と思われない様に。」
こう云って長は、直ぐに電話の所へ走って行った。
「本署へ電話を掛けようと思ったら、中々気の附く曲者だ。電話の線をを切って有る。少しでも、遠くへ落ち延びる手筈を、尽くしたのだ。」
谷川は全く失望した。
「アア残念な事をした。最う捕まる見込みは無いでしょうか。}
長「至急手を配って見る迄です。」
と云い捨て、忙しく手下を指図し、孰(いず)れへか去って了(しま)った。
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