simanomusume246
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
since 2016.9. 3
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
(二百四十六) 唐崎夫人の手紙
「お帰り成さい、お帰り成さい、網守子さん。蜜月の旅は如何に楽しくとも、此の地には其れより以上の嬉しい事が、お二人を待って居ますよ。」
と云うのが唐崎夫人の手紙の書き出しである。夫人の筆は口の様に達者である。
「貴女の結婚の広告の出た時は、実を言うと貴女の為、惜しむ人も有りました。御免下さいよ、私の無遠慮に申すのを、ネ、路田さんの名があの様な事柄で、新聞に出て間も無かったでしょう。全くの所、路田さんに対する世間の疑いが良くは晴れて居なかったのです。ですから、貴女の結婚を、余りに不権衡(ふつりあ)いだと云う人も有り、貴女を、身を誤った様に思う人も有りました。
勿論日頃貴女を知る人々は、そうでは無かったのです。けれど、御存知の通り、貴女の気質を知る人は、極僅かでしょう。網守子さん、私は貴女の為に、何れほど弁解したかも知れませんよ。勿論私には、貴女の美しい心が良く分って居ました。
許嫁の夫に、少しでも疑いが落ちたのを残念に思い、世間の人へ、貴女が如何に深く其の人を信じるかを示す為に、急いで結婚成すったのでしょう。私が斯(こ)う説明すると、聞く人は総て成程と感心しました。でも私だけで総ての人を説き伏せることは出来ません。
何にしても貴女の噂は多くの人の口端に登りました。貴女は常に交際が狭いと仰り、御自分の名が誰にも知られて居ない様にお思いですけれど、結婚すべき年頃の令嬢で、貴女の様に美しく、貴女の様に諸芸が出来て、貴女ほど自由自在に使うことが出来る大財産を持って居る女が、全社交界の噂に登らないと云う筈は有りませんよ。
全く貴女が、初めて倫敦(ロンドン)へ現れた時から、此の令嬢が誰の手に落ちるかと云うことは、若い人達のみで無く、年頃の息子を持つ親々の、寄ると触ると交換する疑問で有りました。特に貴女が面白い試演会を開き、戯曲の天才とも云うべき廃兵を、世に紹介して以来は、寒村網守子嬢と云う名は、殆ど知らない人の無いほど、口から口に伝わりました。が其の時は、誰も路田梨英と云う許嫁の在ることは知りませんでした。
早くお帰り成さいよ。今は貴女よりも梨英さんの方が噂の本と成って居ます。
「古家庭」の絵は展覧会へ行く人が、誰も傑作との褒め辞(ことば)を惜しまずに浴びせ掛けますーーー。」
a:357 t:1 y:0