simanomusume40
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
since 2016.2.10
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
(四十) 再会
梨英は、何度画筆を折って了(しま)おうかと思ったか知れない。自分の画が、自分の名では売れず、傑作の名誉は他人の身に帰して了う。年一年に江南の名声が高くなるに従って、梨英の失望は益々加わって行く。
けれど画を書かない訳には行か無い。書かなければ、食いも着も住みも出来ない。のみならず、自分を追い掛ける借金と言う者の利の足が実に早い。其の上に彼は、画を書いて居る間だけ、自分の憂さを忘れて居る事が出来る。
仕方なく画を書くけれど、全く仕方の無い時に、仕方の無いだけを書くのである。其の外は宛(あたか)も失恋者が自分の過去を味う様に、彼は心の中に、只過去を味うのである。過去の夢から醒めると、
「もう俺の身に未来は無い。」
と深く深く嘆息する。此の様な人が得てして発狂する者である。
彼の部屋には敷物も無い。殆ど飾りや家具さえも無い。其れでも壁に一枚の額がある。此の額は誰にも見せて成らないのか、後ろ向きに伏せて懸けてある。或いは中の絵を抜いて売り、額だけが残って居るのかとも疑われるけれど、そうでも無いらしい。
時々彼は其の額を引き起こし、独り眺めて何事か小さい声で言っては、又伏せて置く。もうそろそろ発狂が近いのではないだろうか。
今も彼は此の額の前から帰り、唯だ一個しか無い椅子に靠(もた)れ、
「アア何だか絵を書き度い気に成った。」
と言い、やがて画布(キャンバス)に対し、絵筆を揮(ふる)い始めた。こうなるともう夢中である。
この様な折しも、入口の戸が静かに開いて、中を覗き込んだのは網守子である。勿論此の部屋には、呼び鈴も取り次ぎも無いので、下で家主に部屋の番号を聞き、独りで尋ねて来る外は無い。別に泥棒から、お見立ての光栄を受けるほどの部屋では無いから、戸に錠を下ろしては無い。
網守子は若しや部屋違いでは無いかと、顔を出して、中の様子を見ると、画室とは思われない。
テーブル一つ、椅子一つ、人一人の外には何も見当たら無い。但し壁の傍に、下絵を入れる行李がある。是には何うやら見覚えが残って居る。部屋の中の人よりは、此の方が昔に変わら無い。
中の人は、夢中になって画筆を揮って居る。網守子の方には、横顔しか見え無い。けれど髪の毛の蓬々として手入れせず、衣服の汚れて、所々が皺に縮んでいて、顔色の青くて、寰(やつ)れた様子、是が五年前の快潤(快活)な梨英とは思われ無い。
けれど梨英である。何と言う変わり方であろう。網守子は見て居る中に悲しくなり、何も彼も忘れた様に部屋に入り、梨英の肩に軽く手を置き、
「路田梨英」
と小さく言った。
次(四十一)へ
a:616 t:1 y:0