巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

simanomusume40

島の娘    (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

サー・ウォルター・ビサント作   黒岩涙香 訳  トシ 口語訳

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            (四十) 再会

 梨英は、何度画筆を折って了(しま)おうかと思ったか知れない。自分の画が、自分の名では売れず、傑作の名誉は他人の身に帰して了う。年一年に江南の名声が高くなるに従って、梨英の失望は益々加わって行く。

 けれど画を書かない訳には行か無い。書かなければ、食いも着も住みも出来ない。のみならず、自分を追い掛ける借金と言う者の利の足が実に早い。其の上に彼は、画を書いて居る間だけ、自分の憂さを忘れて居る事が出来る。

 仕方なく画を書くけれど、全く仕方の無い時に、仕方の無いだけを書くのである。其の外は宛(あたか)も失恋者が自分の過去を味う様に、彼は心の中に、只過去を味うのである。過去の夢から醒めると、      
 「もう俺の身に未来は無い。」
と深く深く嘆息する。此の様な人が得てして発狂する者である。

 彼の部屋には敷物も無い。殆ど飾りや家具さえも無い。其れでも壁に一枚の額がある。此の額は誰にも見せて成らないのか、後ろ向きに伏せて懸けてある。或いは中の絵を抜いて売り、額だけが残って居るのかとも疑われるけれど、そうでも無いらしい。

 時々彼は其の額を引き起こし、独り眺めて何事か小さい声で言っては、又伏せて置く。もうそろそろ発狂が近いのではないだろうか。
 今も彼は此の額の前から帰り、唯だ一個しか無い椅子に靠(もた)れ、
 「アア何だか絵を書き度い気に成った。」
と言い、やがて画布(キャンバス)に対し、絵筆を揮(ふる)い始めた。こうなるともう夢中である。

 この様な折しも、入口の戸が静かに開いて、中を覗き込んだのは網守子である。勿論此の部屋には、呼び鈴も取り次ぎも無いので、下で家主に部屋の番号を聞き、独りで尋ねて来る外は無い。別に泥棒から、お見立ての光栄を受けるほどの部屋では無いから、戸に錠を下ろしては無い。

 網守子は若しや部屋違いでは無いかと、顔を出して、中の様子を見ると、画室とは思われない。
 テーブル一つ、椅子一つ、人一人の外には何も見当たら無い。但し壁の傍に、下絵を入れる行李がある。是には何うやら見覚えが残って居る。部屋の中の人よりは、此の方が昔に変わら無い。

 中の人は、夢中になって画筆を揮って居る。網守子の方には、横顔しか見え無い。けれど髪の毛の蓬々として手入れせず、衣服の汚れて、所々が皺に縮んでいて、顔色の青くて、寰(やつ)れた様子、是が五年前の快潤(快活)な梨英とは思われ無い。

 けれど梨英である。何と言う変わり方であろう。網守子は見て居る中に悲しくなり、何も彼も忘れた様に部屋に入り、梨英の肩に軽く手を置き、
 「路田梨英」
と小さく言った。


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