simanomusume48
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(四十八) 燈火に引かるる夏虫
話は路田梨英の事に返る。それはそうとして、網守子が立ち去った後の梨英は、実に気の毒な様子であった。彼は仕方なく、今夜網守子の宿に行くと約束はしたけれど、自分の身姿(みなり)を見廻しては、何うして此の姿で行かれようと、単に心が委縮する。
けれど彼は、此の身姿(みなり)より外に、身姿は無い。既に今日網守子に逢ったのも、此の身姿である。今更身姿など心配することは無いと、自分で思い直しても、直に又心が挫ける。寧(いっ)そ手紙を出して、行くことを断ろうかと、彼は手紙を書き始めた。しかし又躊躇した。アノ様に約束したものを断ることは、殆ど網守子を欺くにも当たる。
のみならず彼は、網守子が懐かしい。彼の身には、数年の間、誰一人同情を表して呉れる人が無かった。其の間にも、網守子の事だけは忘れず、彼女が五年前に此の身へ言った言葉や、此の身を信じて頼より縋(すが)った顔や姿が、此の身に取って、唯一つの、何となくなつかしい思い出と為り、今までの暗黒な逆境の中に、其の思い出だけが、幾分か此の身を慰めて居た。
其の網守子(あもりこ)が、今は全く見違える様に成長し、昔の通りに、イヤ昔よりも親切に、此の身を励まし、深い深い同情の言葉を吐いて呉れる。何うして行かずに居られよう。
彼は全く燈火に引かれる、夏虫の思いである。書き掛けた手紙に対し又考えたが、急に思い出したのは、今日が即ち蛭田江南から、千円(現在の約百万円)の画料を与えられる筈の日である。千円の金が有れば、にわか拵(こしら)えにもせよ、何の様な身姿(みなり)も出来る。
彼は手紙を破り捨て、此の数年来に全く例の無い、喜び勇む様な心を以て、家を出て江南の画室に馳せ着けたが、生憎に江南は留守である。けれど先刻出る時に、梨英が来たなら待たせて置け、との言葉を残してあった。
真に一刻千秋の想いと言うのは、梨英が江南の帰るのを待つ此の時の心であろう。彼は心を燥立(いらだ)てて、江南の画室の中に立ちながら待ったが、最早や其の金を受け取っても、身姿(みなり)を作る暇の無い日暮れ後に及んで、江南は帰って来た。
「蛭田君、僕を此の様に待たせて君は済むと思うか。」
と叱り付けるのが梨英の挨拶であった。江南は詫び入る様に千円の小切手を渡し、
「実は絵を売るのを止めにしたよ。けれど約束だから立て替えて金だけ渡して置く。余り彼(あ)の絵が傑作だから、次の王国美術院の展覧会に出そうと思って。」
梨英は腹立たしそうに、
「展覧会へ、して又君が名を揚(かか)げるのか。」
江南「其れとも展覧会までに、今一枚書いて呉れるなら。」
梨英「イヤ、僕はもう書かないよ。」
と云ったまま。小切手を持って走り出た。
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