巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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島の娘    (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

サー・ウォルター・ビサント作   黒岩涙香 訳  トシ 口語訳

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            (五十三) 実物以上の或る者

 ここに至っては、路田梨英ほど幸福な男は無いとも言い度い。此の境遇は、又と無いほどの不幸で有るけれど、莫大な富を持った網守子の様な美人に、これほどまで厚い同情を請け、
 「私の金を幾等でも使って下さい。」
と迫られる。此の逆境を羨まない人は、余り世間には無いであろう。けれど羨む人には、此の逆境はめったに来ない。運の神は、妙に人を愚弄する、悪い癖があると見える。

 今正に、登る旭日(あさひ)の勢いを以て、成功しつつあると言われる蛭田江南に聞かせても、喜んで梨英と其の位置を、取り替えたい程に思いはしないだろうか。
 梨英は力無さそうに、
 「いけません。世間が悪いのでは無い。私が悪いのです。世間は天才の画を知る力が有る。貴女がある。けれど私に落ち度が有ります。貴女の深い同情も、今ではもう遅いのです。」

 網「其の様な筈は有りません。貴方が世に出るのは、是からでは有りませんか。貴方は何して其の様な気の弱い事をお言いなさる。私に何も彼もお聞かせ成さい。」
 梨英「網守子さん、私の事は何んにも聞いて下さるな。私は自分で自分の身に愛想が尽き、自分を忘れ度いと思う程です。どうしても貴女が聞き度いなら、お暇(いとま)にする外は有りません。」

 網守子は思い出した。
 「オオそうでした。今夜貴方を招いたのは、貴方の事を問う為では無く、五年以来の私の話を聞いて頂く為でした。」
とは云ったけれど、まだ残念に耐えない思いが有る。網守子は梨英の絵を取り小笛に示して、

 「小笛さん、貴女は此の絵を何と思います。」
 小笛は、網守子が梨英の境遇を察するよりも、もっと深く察している。自分や自分の兄の事などを思い合わせ、世の中から顧みられない、貧乏な芸術家が、如何に辛いかと言うことを知るのみならず、若しや此の人も、何か自分達と似た様な事情に、縛られて居るのでは無かろうかと言う様な気がして、先刻から其の気で梨英の言葉を聞いて居ると、言葉の裏に含まれて居る深い恨みが、一々に自分の心に徹(こた)える様な心持ちがする。

 「私には絵の事は分かりませんけれど、拝見しただけで、なんだか実景や実物より以上に、深い或る者が絵の底に輝いて居る様に感じられます。」
 流石に詩人の言葉である。梨英は嬉しそうに、
 「実物以上の或る者が絵の底に輝いて居ると、素人に見られるなら、其れが画家の妙域です。画家の苦心は、唯其の実物以上の或る者を、絵の底に輝かし度いのに在るのです。」

 網「それ御覧成さい。貴方の画は其の妙域に達して居るでは有りませんか。」
 梨英は自ら手文庫に手を入れ、網守子の書いた絵を取出し、
 「ヤヤ、是は誰が書きました。」



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