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島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(六十) 意外、けれど当然
今まで添子は、幾度網守子に向かい、蛭田江南の功徳を述べたか知れ無い、けれど網守子の心を、十分に江南の身へ引き付けることが出来なかった。今こそは其の時が来たと思った。
「其れは貴女、江南ほどの親切な紳士は、今の世に二人とは居ないでしょう。貧乏な芸術家などは、大抵彼の世話に成って居ますよ。」
さては梨英も彼の世話を受ける一人だろうか。
こう思うと網守子は、却(かえ)って一種の不快を感じた。自分より外の人が、梨英に補助などを与えるのは、何だか自分を踏み付けにする様にも思われる。添子は更に、
「江南には学生時代の貧乏な友達が沢山有りましてね、今でも時々尋ねて来ますが、其の度に江南は必ず幾等かの金銭を与えます。」
網守子は益々不平である。或いは蛭田江南から、乞食扱いにせられて居るのでは無いかと思われる。添子はそうとも知らず、
「其れに就いて、私は是非とも貴女に聴いて頂き度いと思う相談が有りますよ。江南は余り慈善が深い為、自分の収入は大抵人に使われて了(しま)い、誰にも打ち明けることの出来無い、困難な事情に迫って居ますの。」
網「誰にも打ち明けない事柄を、貴女は何うして知りましたか。」
是には少し詰まった、けれどそうと悟られる様な不手際はしない。
「私は亡夫初鳥が、特別に江南と親しくしていました為、江南の事情が好く分かる訳が有るのです。其れで私は、先日から貴女へ御相談したいと思って居ました。」
是だけ言って網守子の顔を見ると、何うも自分の思うほど、心を動かして居る様子が見え無い。先ず大いに心を動かさせて置かなければと、直ぐに攻撃の方面を変え、
「貴女は先夜の江南詩集を読みましたか。」
網「読もうと思って手に取ったけれど、止めました。」
添「アレ、手にまでお取り成さって何故に?」
網「私は表紙の裏に書いて有る言葉が気に入りませんから」
実に網守子の心は、一々添子の思うことと反対である。添子は表紙の裏の言葉が、必ず網守子を嬉しがらせるだろうと思って居た。
添「何が、表紙裏の言葉が、何故お気に入ら無いのです。」
と自ら立てた彼の彼の詩集を持って来て、
「大層美しい言葉では有りませんか。是だけでも中の詩が旨いと分かりますのに。」
網「イイエ、親しき交わりの弥(いや)が上にも嬉しい実を結ばんことを願いてなどと、私は言い過ぎだろうと思います。蛭田さんと私の間には、未だ親しいと言う様な交わりは有りません。若し親しい交わりを願い度い為にと言うなら分かって居ますけれど。嬉しい実を結ばんことを願いてとは、馴れ馴れし過ぎるのでは無いでしょうか。」
実に意外な非難である。けれど当然の非難である。
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