巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

simanomusume61

島の娘    (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

サー・ウォルター・ビサント作   黒岩涙香 訳  トシ 口語訳

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      (六十一) 其所が天才ですわ

 全く江南は、
 「親しき交わり」
と言う程の親しい交わりを、未だ網守子と結んでは居ない。
 「弥(いや)が上にも嬉しい実を結ばんことを願って。」
などとは如何にも慣れ慣れし過ぎる。
 是を網守子が嬉しく思わないのは、一つは、若しや江南が、梨英を凌辱しているのでは無いかとの反感の為でも有り、又一つは、余り江南が、此の頃網守子の行く先々へ、馴れ馴れしく立ち廻る為、自然に不快を感じていることにも因るであろう。

 添子は熱心に弁解しつつ、
 「先アその様な事を仰有らずに、此の詩集を読んで御覧なさい。江南の心の美しいことは、詩の上に溢れて居ます。其れは天才の奇行などと申しまして、行いの上には、貴女のお気に召さない事が有ったかも知れませんけれど、彼の詩を読んで、彼の心の美しさに打たれない人は、先(ま)あ無いでしょう。」
と言って、強いて網守子に詩集を読ませた。

 網守子は一種の好奇心を持って、先ず一篇を読んで見たが、全く其の詩は網守子の心に、天啓の様に感ぜられた。一篇、又一篇と、吾知らず引き入れられ、殆ど巻を措こうとしない。添子は見て居て、嬉しくも有り、又妬(ねた)ましい様にも感じた。
 「それ御覧ななさい、実に天才でしょう。美しい心が溢れて居るでしょう。」

 網守子は読み入って返事もしない。
 凡そ十篇以上を読み終わって、初めて何か気の付いた様に顔を上げ、
 「是は蛭田さんが詠んだのでしょうか。」
 「オホホホホ、其の様な事は、お問い成さる迄も有りません。」
 網「でも私達の様な、若い女の心がそっくり詩の中に宿って居ますがーーー。」

 添「其処が天才ですわ。」
 網「でも彼の様な重苦しい方に、此の様な微妙の事が言え様とは思われませんもの。」
 添「其処が天才ですわ。自分が男で有りながら、若い女の心を詠めば、若い女の心にヒシヒシと浸み込みます。実に天才は貴いでは有りませんか。」
 網「其れはそうですけれど。」
と言って更に考えた。

 添子は時機が熟したと見た。
 「ねえ、嬢様、此の様な大天才が、今は金銭上の事で、甚(ひど)い迷惑に陥って居るのですよ。其れは貴女、世間の少しでも芸術趣味の有る貴婦人に打ち明ければ、天才を保護するのは、貴婦人の誇りですから、誰でも其の迷惑を、私が救って上げようと言うのに極まって居ますけれど、私としては是非とも貴女に、其の名誉を引き受けて頂きたいのです。何うでしょう、ここで僅かに三万五千円も有ればすっかり、彼の心配が無くなり、彼は一心を芸術に投げ入れて、益々天才を発揮する事が出来ます。何うか貴女が其の三万五千円を、貸与えて下されないでしょうか。」

 到頭添子は火蓋(ひぶた)を切った。


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