巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

simanomusume67

島の娘    (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

サー・ウォルター・ビサント作   黒岩涙香 訳  トシ 口語訳

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    (六十七) 江南の筆は唖である

 蛭田江南が尋ねて来ると聞き、網守子は直(すぐ)に断ろうと思った。けれど思い直した。兎も角も彼に逢って、我疑いを確かめなければ成らない。彼が来るのは勿怪(もっけ)の幸いである。今までは、彼を成功した天才と思って居た。今日は画盗賊として、静かに観察しなければ成らない。

 添子は網守子の顔色が、常に変わって居るのに気が附き、
 「貴女は先刻から何を考えて居らっしゃるの?」
 網「私は大変な事を発見してーーーー。」
 添子自らが脛(すね)に傷を持って居る。
 「エ、大変な事とは、何か私の身に就いてですか。世間の人は私の事を色々に言いますけれど。」

 網「ナニ、貴女の身に就いてでは有りませんよ。」
 添「では誰か、貴女の財産を奪ったとでも言うのですか。」
 網守子は、添子に打ち明けるべき事で無いと思い、
 「ナニ其の様な事では無い、私は自分の思い違いに気が附いたのです。」
と言い、体よく話を打ち切って了(しま)ったが。間も無く蛭田江南が入って来た。

 彼の身には全く富と成功が輝いて居る。其の実、其れほどの富でも無く、内幕は甚だ怪しい、又成功と言っても、色々と掛け引きの多い成功で、当人の心には、殆ど安心と言う瞬間が無い。けれど、傍(はた)から見る目には、全く当世第一の流行児である。

 網守子は何時に無く、打ち解けた様で彼を迎えつつも、彼の様子の立派なのを見ては、梨英の見すぼらしさと、思い比べない訳には行かない。
 網守子の心には、梨英が小切手を裂き捨てた事をさえ、思い浮かべた。彼の小切手には蛭田江南の名が有った。彼は江南に自分の天才、自分の名誉、自分の人格を奪われたのを、心外に思い、其れで小切手を、裂き捨てたのでは無いだろうか。こう思うと網守子は、自分が仇敵の前に居る様にも感ぜられる。

 網守子はなる可(べ)く話を、画の方に向けたが、江南の答えが、全く他人の説の受け売りあることが良く分る。今までは、唯彼の言葉を、重苦しいと思うに止(とど)まったが、今は其れが一々贋(にせ)であると感ぜられる。けれど彼は、網守子の待遇(もてなし)が嬉しくて、止め度も無く自慢話が募り、何でも自分の天才を誇ろうする。

 終に網守子は自分の画を持ち出し、筆を与えて、
 「何うか直して下さい」
と言うと、彼は当然の様に筆を取り、
 「そうですね、私が加筆すれば、此の絵が全く活きて来ますよ。」
と言い、筆を指先で弄ぶけれど、画面に触(さわ)ろうとはしない。

 網守子は、曾(かつ)て梨英に、絵を教わった時の事を思い比べた。梨英の筆は活きて居る様に、自然に紙の面を走り、少しも休まなかった。江南の筆は唖であると共に聾である、死物である、少しの働きも見せ無い。


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