simanomusume68
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(六十八) 行く先は梨英の許
今に江南の鉛筆が紙に着くかと待って居ると、着きそうに見えて着か無い。紙より一、二寸離れた空中を、宛(あたか)も巧みそうに行きつ戻りつする。
彼は筆の無能を口で補っている。
「天才の筆が一寸触(さわ)れば、死んだ画が活きて来るから恐ろしい者ですよ。良く御覧なさいよ。」
今度こそ紙に着くかと網守子は息を凝らした。けれど着か無い。
彼「けれど貴女は、女としては感心に良く修行成さった。是だけ描(か)ければ、私の筆の行く所を見て、成るほどと合点することが出来ましょう。若し修行の足り無い婦人ならば、天才の筆を見ても、天才と解することが出来ません。」
言う折しも、幸か不幸か四時を打つ時計の音が聞こえた。彼は之に驚かされた様に、
「アア、私は四時に逢う約束の人を忘れて居ました。貴女のお傍では、何時の間にか時間が経ちます。残念ながら今日は是でお暇(いとま)にしなければ成りません。」
嘘か誠か知ら無いけれど、かけ引きが実に旨い。少しも嘘らしい所を見せ無い。
「貴女の作品は此の次に、悠(ゆっ)くりと来て直してあげましょう。」
と言って分かれ去った。
後に添子は網守子の傍に寄り、
「貴女は本当にお仕合せな方ですよ。蛭田さんが自分の天才を惜しまずに教えて呉れるとは。---貴女より外の方なら決してーーーー。」
網守子「ですが貴女は蛭田さんが、実際に絵を書いて居る所を、見た事が有りますか。」
添「イイエ、江南は全く書き上げて了(しま)うまで、誰にも見せません。彼は出来上がる前に、批評されるのは五月蠅(うるさ)いと云って居ります。」
網「画題は大抵海ですか。」
添「そうです。彼は他の画家の様に、深山は書きませんが、書けば必ず海に縁の有る絵で、何処かに必ず少女が居ます。其のモデルが分から無いので、世間では江南の乙姫と言いますが、丁度貴女の子供の頃の姿かと思われる様な容貌ですよ。」
網守子は、もう自分の疑いを確かめるのに必要な丈は、見もした。聴きもした。
此の上は更に路田梨英に逢い、直々に問試み度いと思い、今日は少し時間が遅いけれど、其れでも尋ねて行く気に成った。折しも丁度、二、三日見えなかった柳本小笛が来て、葉書でお断りしました通り、兄が病気に成りまして、傍を離れることが出来なかったものですから。」
と言い訳けした。
「イイエ、兄さんの病気なら、私の所へは、幾日来なくても構いませんが、何の様な御病気ですか。」
笛「余り失望して、神経を激動した為か、熱が出まして。けれどもう直りました。」
網「では是から私と一緒に、散歩が出来ますか。」
笛「ハイ、今日はもう、何時まででも。」
二人は連れ立って外に出た。
行く先は梨英の許(もと)である。
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